Michael Jacksonの最後の授業。それは『Professionalの仕事』

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昨晩、レイトショーでMichael Jacksonの「THIS IS IT」を観てきました。終わった後にスタンディングオベーションが自然と起こった映画は生まれて初めての体験でした。

そこに居たMJはリハですからきっと歌声は6割、ダンスは5割くらいに意識的にセーブして練習しているように思いますが、それでも『圧倒的』です。そこに手抜きはありません。近年は、ゴシップ、裁判沙汰、奇行、興味本位もしくは金銭目的でプライベートもズタボロにされていたことを知らない人はいないでしょう。「Michaelは終わった」「Michaelは過去の人だ」「Michaelと言ったら整形と奇行」「今のMichaelが歌えて踊れると本当に思えるか?」等々、様々な報道が在りましたが、この作品を観れば、そういった発言をした人は恥じ入ることでしょう。セーブしていながら、これほどまでに圧倒的な歌声、50歳とは思えぬ圧倒的なダンス・・・この人は本当に亡くなってしまったのか??開始から本当に涙が止まりませんでした。きっとこの作品の音楽的な部分は多くのメディア・ブログに書かれるでしょうから、少し違った視点でこの作品を観てみることにします。

私は、1987年9月13日(当時12才)Badツアー・1988年12月24日(当時14才)Badツアー・1992年12月24日と31日(当時18才)DANGEROUSツアー・1996年12月15日(当時22才)HIStoryツアーとおそらくMJが来日したツアーはほぼ全て行っています。思い返せば1987年のBadツアーは私が人生で初めて行ったコンサートでした。私は最初に行ったコンサートで、世界最高のステージを観ることができた幸運な人間とも言えます。最初にBadツアーを観てから私の中でMJは別格の存在でした。私の中では、スーパースターといえばMJ以外にいません。MJのステージ映像、ショートフィルム・・・入手できる限りの映像を観てきましたが、ステージを作る舞台裏の映像は殆ど皆無だったはずです。MJがどういう姿勢で、態度で、ステージを作っていくのか?この映画はMJの仕事ぶり観ることができる貴重な映像です。

完璧主義者と言われていたMJですが、本当にその通りで、テンポ、リズム、無音状態の時の秒数、余韻の残し方、観客をどこで煽り、どこで焦らし、どこで陶酔させるのか、全てを丁寧に、微に入り細に入り、妥協無く作り込んでいきます。ネタバレしない程度に一部のシーンを取り上げます。キーボード担当との打ち合わせの際、「テンポが早い」「もっとじっくりと」と本当に細かく細かく何度も何度も要求するシーンがありました。イメージが伝わらない共有できないもどかしい所です。厳しい口調で高圧的に言うこともできたでしょう。しかしMJはそうしませんでした。口調はあくまでも穏やかで、一緒にベストなステージを作りたいという情熱を込め丁寧にイメージする音を言語化し伝えようとします。キーボード担当もその情熱に応えるべく、何度も何度も繰り返し、「マイケルにしかそのイメージはわからない。もっと具体的に言ってくれ」と食い下がります。結果、確かに素人が聞いても最初よりも良い演奏、MJらしい豊かな音になります。数々の有名アーティストと競演してきた天才ギタリスト、オリアンティですら同様です。彼女の渾身の演奏を「もっと高音を!ここは君の見せ場だ!」とより高い次元、素人が聞いても圧倒的な演奏へと一段階も二段階も上に引き上げます。ダンサーも皆、超一流ですが「Billie Jean」では子供のように目をキラキラさせ、MJのダンスを目に焼き付けた後のパフォーマンスでは更なる高みのダンスを観せてくれるようになります。

「真のProfessinalの仕事とは、全体を俯瞰しつつ、細部にまで目を行き届かせること。周囲の人間には「愛」を持って接し、丁寧に熱心に、忍耐強く接すること。諫言には謙虚に耳を傾け、自分が先頭に立って未知なる領域を切り開き、そしてその未知の領域に全員を連れて行くものだ」と全ての仕事に通じるProfessionalのあるべき姿勢を、映像を通じて身をもって教えられました。そんじょそこらの自己啓発書を読むより、この映画を観た方がよっぽど”仕事”というものを見つめ直せるのではないかとさえ思いました。

何よりも、児童虐待裁判の際、全世界が敵に回ったような、一般人には想像すらできない壮絶な苦境を経験し、多くのバッシングを浴び、プライベートを踏みにじられ、心がズタズタに踏み荒らされたはずのMJは最後まで「L.O.V.E LOVE」と全世界に、全世界の人々にこのメッセージを発信することを止めませんでした。それどころか「全世界の人々に感謝している」とさえ言います。そんな私たちとは全く別の次元の本当の意味で豊かでどこまでも懐の深い、素晴らしい人間性とその魂を持つMJを私は心から尊敬します。彼のような不世出な傑物、真のスーパースターはもう二度と現れないでしょう。私たちは彼が実現したかった世界、いつも歌を通じて、ダンスを通じて表現していた、人間のあるべき世界を実現するべく、小さくても確かな前進を続けていく必要があると思います。彼のように全世界に影響を与えることはできなくとも、一人一人ができることが何かあるはずです。

@haTshさんとの約束なので、超個人的MJベスト10を書いておきます。
  1. MAN IN THE MIRROR
  2. KEEP THE FAITH
  3. ON THE LINE
  4. SOMEONE PUT YOUR HAND OUT
  5. THEY DON'T CARE ABOUT US
  6. SCREAM
  7. GHOSTS
  8. JAM
  9. EARTH SONG
  10. BLACK OR WHITE
番外(^^;):WE ARE THE WORLD(DEMO)

MJの曲は全部大好きで、特にアルバム「DANGEROUS」には個人的に格別な思いがありますが、このところのヘビーチューンは上記の曲です。

この映画、通しリハの映像はないのかな?あるんだったら映画館で静かに観るんじゃなくて、武道館とかドームとかで叫びながら観たい!!

最後に、非常におこがましいけど、MJの3人の子供たちへ一言。
「君たちのお父さんは間違いなく素晴らしく美しい魂を持った偉大な人物でした。
このステージは君たちへ向けたお父さんの最後の授業だと思います。
お父さんの偉大さに押しつぶされることなく、堂々と前を向いて歩いていってください。」

"私のビル"を作りませんか?

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会社の私のデスクから、クルっと後ろを振り返ると目に入る建築中のビルがあります。このビル、私が現在の会社に転職するのと同じタイミングで建築が始まりました。

あれから3年。まだ更地だった頃から見続けていたビルが25階までできていました。計画では52階建てということなので、約半分の高さまで来たわけです。

なんとなーく気になって見続けてきた建築途中のビルですが、ハタと2つのことを思いました。
・1つ目は、こんなに一つのビルが建つのを意識して見続けたことがあっただろうか?
・2つ目は、半分まで建ったビルと同じ年月を過ごしてるワケだけど、私は少しは成長できたのだろうか?

いつも通っている通勤路、いつも見ている町並みなのに、ふと気づくと新しい建物、新しいお店ができていて、そこに以前は何があったか思い出せないという体験はありませんか?これらの体験は、いかに「日常」を気にとめていないかということの証明でしょう。

しかし、視点を変えて、そうした日常の風景の変化しつつある1カ所だけでも決めて定点観測していると、「目安」として使えるのではないかと思います。

私が見続けているビルの場合、自分と共に成長していくようなイメージで見続けていて、半分まで建ったことが「目安」となり、自分の3年を振り返る契機を与えてくれたという感じです。

ユビキタス・キャプチャーは時系列に一人称の情報を記録することが肝要ですが、瞬く間に過ぎ去っていく今を記録するのと同時に、変化しつつある日常の風景の1カ所に、自分専用のGoogleMapのピンを立てて、過去の風景、記憶などを引っ張り出す、振り返る目安にすることも、私みたいな記録することを忘れてしまいがちな者には有効な方法なのかなと思いました。

何かに急き立てられるかのように全力で走っている最中に、後ろを振り返ることはとても難しいことです。急激に過ぎていく時間の中、気づかないくらいじっくり、少しづつ、しかし確実に空に向かってニョキニョキと建っていくビルを意識的に目安として、過ぎていった時間を感じ、過去を振り返ることはたまには必要ではないでしょうか?

蛇足ですが、こうして過去に思いを馳せた後には、「このビルが完成する頃には「オレもこんな人間に成長したよ」とビルを見上げて(見下ろして?)言えるような人間になっていたいなぁ」と、半分まで建った"私のビル"を見上げながら少し前向きな元気を得られたりもします(笑)

本当に優れたデザインは「MoMA」より「商店街」にある

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Twitterで、@m0r1さんにモレスキン手帳の世界巡回展「Detour・東京」が表参道のMoMA Design Storeで開催されていると教えていただいたので、早速行ってきました。

展示そのものは意外に小ぶりなものだったのですが、私が知らず知らずに作っていたノートの描き方の常識みたいなものをぶち破ってくれて、ノートはもっともっと大胆に使って良いんだ!ノートって懐の深い製品だなぁと思える内容でした。正直、アート作品になっているのは全く意図が分からないものもありましたけどね(^^;)

しかし、展示会を見終わって、MoMA Design Storeで販売されている雑貨、文具、家具などを見ている内に、どうも違和感を覚えました。その違和感が一体何なのか?決定的だったのはコレです。
クリッピオーラ スパイラル ペーパークリップ

何だかわかりますか?これオフィスを掃除したら必ず一個は吸い込むと言われる(?)あのゼムクリップですよね?なんで、ゼムクリップをスパイラル型にした"だけ"で1,260円もするんでしょう?その"だけ"の部分がデザインであって、そこに付加価値が生じるというのは理解できるんですが、私の価値判断基準「使うときに100%の性能を発揮できるか?」に照らし合わせると、高価すぎて日常業務で意識せずに使える物ではありません。故にこの製品は「使えない」のです。

そうやって見てみると、確かに見た目が素敵だったり、持っていたら気持ちいいだろうというものは多くありますが、実戦で躊躇無く使い倒せるもの(価格も含めて)が殆ど無いのです。

実は小山龍介さんと土橋正さんが書かれた『STATIONERY HACKS!』を読み終わった後にも同じコトを感じました。使っていて気持ちの良い、気分良く仕事ができそうなおしゃれな文具がわんさか紹介されていますが、これらは、いつでもどこでも入手可能なのかな?と思える物も散見されたからです。

学生時代バイト先の法律事務所が標準採用していたエセルテ社のファイルが日本で入手できない時がありました。これはエセルテジャパンが撤退?したことが原因のようなのですが、エセルテで統一していた法律事務所の職員一同、非常に困ったことがあります。海外のステーショナリーを紹介するのは良いんですが、いざ追加や導入をしたいと思った時に買えないようではいけないのではないかと思うのです。

優れた道具とは容赦ない酷使に耐えられ、いつでもその性能を100%発揮してくれ、入手が手軽なものだと私は思います。さらに突っ込んで優れたデザインとは、いつでも手軽に安価で入手可能でありながら、どれだけヒドイ扱いを受けても、酷使されても、いつでもしっかり性能を発揮してくれる『デザイン』であるべきだろうと思うのです。

卑近な具体例を挙げると、三菱のPOWER TANKなんて屋外でも風呂場でも上向きでも書ける油性ボールペンが210円で手に入るという事実の方が凄いくない?ということです。どれだけ見た目がカッコ良くても風呂場で書きたい!という欲求に応えられなければ失格だし、寝たきりの状態の時に上向きで書きたいという欲求に応えられなければダメだと思うのです。でなければデザインじゃないんじゃないでしょうか?

フェラーリとカローラを同じ土俵で評価するのは難しいのと同じ難しさがあるとは思うのですが、より多くの人のニーズに確実に応えられるデザインはカローラの方だろうと思います。だからこそMoMAのようなデザインの権威のような機関はは、もっと日常に近いモノをクローズアップしてくれると、見慣れた日常の見え方がまた変わってくるだろうになぁと思います。

極論ですが優れたデザインを見たければ「MoMA」ではなく「商店街」の方が良いのかもしれません。商店街にある文房具店にも、鞄屋にも、家具屋にも、金物屋にも、日常に密着し過ぎていて意識せずに使っているが故に、見落としている(埋もれている)優れたデザインが沢山あるのではないかと思います。

とは言え、モレスキンはちょっと高価ですが、職場でアセトンをかけてしまっても(その時は少し溶けました)問題ないタフさがあり、私には無くてはならない製品として愛用していますし、(とても買えませんが)柳宗理も、イサム・ノグチも、ヤコブセンも、イームズも大好きです。当然、車も「一番乗ってみたい車は何?」と言われれば即座に「アストン・マーティン!」と答えますけどね(笑)あれ?結論としては、結局貧乏人のひがみなのか??(笑)

「iPhoneって何ができるの?」「ん?答えはコレに全部書いてあるよ」ー感想:iPhone情報整理術-

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※ネタバレはありませんのでご安心を。

もはや日本のライフハック界5本の指に入るであろうお二人、[Lifehackng.jp]の堀正岳さんと[ライフハックス心理学]の佐々木正悟さんがタッグを組まれて書かれた『iPhone情報整理術 ~あなたを情報’’強者’’に変える57の活用法!(デジタル仕事術シリーズ)』のテスト販売分を何とかゲットできて、一気に読み終えたので、一読した後の感想をこれまた一気に書きます(一気なので誤字脱字、至らない点はご容赦を)。

私は3GSが発売されてからのiPhoneユーザーですので、まだまだド素人の域を出ませんが、それでもiPhoneが生活の一部になっていくに従って明らかに「情報」というものに関する身構え方が変わりました。

例えば「数字」。売上・粗利・粗利率・原価率・良品率・不良率・在庫数・仕掛品数などなど、仕事には数字がついて回りますし、給料・家賃・食費・光熱費などなど生活にも数字がついて回ります。

私は文系出なので(と言い訳)こういった数字を頭に留めておくことがものすごく苦手です。自慢じゃないけど2桁になったら暗算出来ない自信があります(マジ)。その為「そのくらいの数字は覚えておけ!」と怒られる有様だったのですが、iPhoneが来てから数字にまつわるデータは全てiPhoneに突っ込んで、即座にその数字を確認できるようになったことで数字アレルギーは軽減され、無駄なストレスがなくなりました。また、生活面でも自分が使った金額はレシートを写真で撮っておいて、帰宅後写真を見ながらゆっくり自分の無駄づかいっぷりを反省することにより、だいぶ出費が減りました(笑)

この本の多くのページを割かれているのが「iPhoneに記憶や記録は"え?ここまで?"と思えるくらいに全て任せて、人間は純粋に人間にしかできないことをやろうよ」という部分です。しかしその他多くのビジネス書と一線を画すと思うのが、あらゆるビジネスパーソンに対して"フェア”だという点です。つまり佐々木正悟さんの前著『仕事脳を強化する記憶HACKS(ハック) ~ITツールを駆使して”第2の脳”を使いこなせ! (デジタル仕事術シリーズ)』と同様、「使えるところは使ってね」という姿勢でありながら、出来る限り多くの仕事の形をフォローできるよう幅広く例を挙げてくれています。

私のような多くの薬品を使ったりする仕事だと、全部が全部iPhoneがあれば解決さ!とはいかないのですが、「デジタルを追求するとその影としてアナログの必要性が高まります」としてノートとの併用の効果に関しても多くのページを割いてくれています。(この部分を読んで、薬品を使うときはノートに書き込んで、後でSCANすればいいじゃん!と我ながら何で今まで気づかなかった?と思えるような使い方を発見できました。バカですなぁ。)

また、仕事だけに留まらず、本棚の整理で困ってない?クローゼットの整理はどう?体重管理とか睡眠時間管理とか困ってない?という感じでiPhoneが私たちの普段の生活にも色々な手助けになってくれることを1章丸々割いて言及してくれています。

ですので、今iPhoneを使っていない人でも、情報というものとの付き合い方の手段が多角的に学べるという意味でこの本は有益だろうと思いますし、iPhoneユーザーであればもはや必読。きっと「ああ、こういうシーンでも使えるなァ」と思える点がいくつも出てくると思います。またiPhone買おうかどうしようか?と悩んでいる人なら、本屋でこの本を立ち読みしてたはずが、気づいたらSoftbankショップで契約書にサインをしているところだったということになるでしょう(笑)

掌にこれほど多くの情報(もはやありとあらゆる記録)を持って歩けるなんてすごいじゃないか!改めてそう思わずにはいられません。同時にこうして自由になった脳を何に使うのかが今度は重要だとも思います。どうせなら地球温暖化や少子高齢化、飢餓の撲滅、核の根絶など、今はスケールが大きすぎてイメージもできないようなことに、少しでも関与していくことができるような高い次元に使えたらいいなぁと読了後に何だか爽やかな夢みたいなものを抱かせてもらいました。

心のセーフティーネットを準備しよう

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ここ数週間、何がきっかけかわかりませんが、一気に鬱に落ち込み、ものすごく苦しんでました。その結果、鬱の予兆から最低に落ち込むまでの過程とその時の対処法が朧気ながら見えてきたので、自分の備忘録及び同じ病に苦しむ人、その家族の参考になればと思い書き残しておきます。(あくまでも私の経験則です。学術的根拠などはゼロです。その点ご承知おきください)

鬱に落ちていく段階を自己観察すると、どうやら概ね10段階あるように思えます。

フェーズ1.風邪に似た症状が長引く(7度ちょっとの微熱が続くなど)
フェーズ2.集中力が持続出来なくなる。質問されたりすると即拒絶したくなる
フェーズ3.落ち着ける場所が無くなっていくように感じる
フェーズ4.落ち着ける場所を見つけたらそこから動きたくなくなる
フェーズ5.動きたくない自分に腹が立ち始め、言動はじめ全てが攻撃的になる。
フェーズ6.攻撃的になっても変わらないことが分かって再度動きたくなくなる
フェーズ7.鬱になった自分を責める思考ループに入る。原因は全て自分のせいだと考える
フェーズ8.自分が悪いのだから、自分がいなければ解決すると思うようになる
フェーズ9.幻聴(だと思いたい)で「死ね」というささやきが聞こえる
フェーズ10.本気で死ぬこと、死に方を考える。

フェーズ10まで来てしまうと、あとは復活のきっかけを掴むか、死ぬかの2択になります。
今回、わずか数日でフェーズ10まで落ち、そこから数日で復活出来たのは本当に奇跡的なことだと我ながら感じます。今回復活出来た最大の要因はTwitterでのみんなからの励まし、支えの言葉でした。特にhaTshさん、utchyさん、oilshopさん、kira88さん、Match2chさん、には本当に感謝です。

また、佐々木正悟さん主催のマインドハックス研究会に参加していて本当に良かったと思えた瞬間でもありました。これは脳内物質が引き起こしていることだと最後まで思えたこと。また脳内物質のボリュームを整えられれば元に戻るということを学んでいたからです。ですから落ちていく中でも冷静に自分を観察することができ、ユビキタス・キャプチャーし続けることができました。今回フェーズ10まで行く過程で、色んなことを試しましたし、ここでコレをやっていれば違っていたかもしれないということもあったので、その辺をフェーズ別に書いておきます。

フェーズ1.風邪に似た症状が長引く(7度ちょっとの微熱が続くなど)
 対策:今思えばこの時点で休むべきでした。オカシイと感じたら休む。これは基本です。期末で休めなかったというのが決定打だったのかもしれません。

フェーズ2.集中力が持続出来なくなる。質問されたりすると即拒絶したくなる
 対策:拒絶反応に気づければ、ここ段階までならマインドハックが役立ちます。幸い今の職場は僕の病気のことは全員知っているので、「今オカシイんです」と明言しておき、人間関係のトラブルに巻き込まれないようにしました。また、作業を出来る限り細切れにしてその1つの作業だけをやったら休憩、やったら休憩と急ぎの仕事でも休憩を取るようにしました。握力ボールを握ってみたり、ふらっと外に出て気分を変えてみたり、水を飲んでみたり、WhiteNoiseを聞きながらやってみたり、イロイロやりました。ここでSTOPをかけられることが殆どだと思います。その意味でマインドハックを学んでおくことは絶対必要ですし、重要です。

フェーズ3.落ち着ける場所が無くなっていくように感じる
 対策:会社にいても落ち着かない、自宅にいても何か居心地がわるい、自分の城である書斎ですら何か自分を拒絶しているような感じがする。そんな気分です。常に自分に良くしてくれる(接客態度がサイコーな)お店を探しておくのが良いと思います。
本来、落ち着ける場所は自宅がそう在るべきなのですが、次の4を考えると、本当に落ち着ける自分だけの隠れ家は外に見つけておいた方が良さそうです。図書館はオススメしません。あくまでも人との接点がある所が良いです。小気味よい会話が楽しめる昔ながらの喫茶店なんてのが理想的かもしれません。

フェーズ4.落ち着ける場所を見つけたらそこから動きたくなくなる
 対策:落ち着ける場所が自宅以外であれば、閉店時間が来たら出されます。しかし自宅の書斎などがあまりに快適だったりすると、本当にそこから出られなくなります。今回のことで、我が家では書斎の扉を取り外しました。

フェーズ5.動きたくない自分に腹が立ち始め、言動はじめ全てが攻撃的になる。
 対策utchyさんもTwitterでおっしゃっていたとおり、鬱と攻撃性は表裏一体の関係です。突然破壊衝動におそわれます。机の上が汚い、リビングテーブルの上に書類がたまっているとかそんなことが無性に腹立たしく、全てをぶっ壊したくなります。これは自制できません。事前に100均などで「かっこわるい・デザインがむかつく」お皿を買いだめしておいて、それをどんどん割っていくというのもアリです。実際今回これをやりました。破壊衝動を当てて良いところが無いと、本当に他人や動物を殺しかねないので、これは用意しておいた方が良いと思います。
 
フェーズ6.攻撃的になっても変わらないことが分かって再度動きたくなくなる
 対策:暴れるだけ暴れて、疲れたことからこのフェーズに入ると思われます。家族は安心すると思いますが、この時点で自傷行為に走る場合があるので、その点注意が必要です。コレに対する対策ですが、動きたくなくなったときに戻る場所を無くすことです。書斎に引きこもっていた場合、書斎で暴れていたら、そのあと書斎でうずくまるのも億劫になるはずです。従って落ち込める場所がなくなり、寝るしかない状態になれば成功と言えると思います。

フェーズ7.鬱になった自分を責める思考ループに入る。原因は全て自分のせいだと考える
 対策:先に寝ると書きましたが、絶対寝られません。ずーっと延々回答のない問題を考え出します。しかも全てが後ろ向きです。ここでTwitterがひとつの助けになります。他の人は基本的に楽しい思いをしているじゃないか、こうなろうよと思考を少しでもズラすことが出来る可能性があります。いつも笑ってしまうようなつぶやきをしている人をフォローしておくのは絶対効果的だと思います。

フェーズ8.自分が悪いのだから、自分がいなければ解決すると思うようになる
フェーズ9.幻聴(だと思いたい)で「死ね」というささやきが聞こえる
 対策:8と9はほぼ同時に訪れます。逆説的ですが「生と死」を描いたマンガを読むことを薦めます。個人的には「」というマンガが一番良いと思います。もしくは極限状態を描いた小説なども効果的です。この場合、日本最高のアルパインクライマー、山野井夫妻を描いたノンフィクション「」をオススメします。この極限に比べれば・・・と思えれば復調のきっかけを掴めるかもしれません。間違っても太宰とかは読んじゃダメです。背中を押されてしまいます。読む体力が残っていない場合は、音楽か香りかどちらかを使いましょう。音楽はできるだけスローテンポなもの。香りは良く分かりませんが落ち着くと言われている香りが良いのではないでしょうか?

フェーズ10.本気で死ぬこと、死に方を考える。
 対策:まず身近な人の死に顔を思い出す、もしくは知人の葬式などのシーンを回想すると、自分が居なくなったらどれだけの人に迷惑をかけるかを考えると死ねなくなります。私の場合は妹を思い出し死ねませんでした。

また、これ以外に、今回気づいたことですが、日常生活を規則正しいものにしておく重要性です。私の場合だと(平日のスケジュール例)
 6:00起床
 7:32自宅出発
 8:20会社着
 12:00-12:25昼食
 12:25-12:55昼寝
 13:00-17:00仕事
 17:00-17:30その日の纏め仕事
 18:00〜18:30頃帰社
 19:20頃帰宅
  以降、愛犬と散歩に行ったり、夕飯食べたり、読書をしたりする
 11:00就寝

この生活をほぼ守るようにする。予定外の残業だとかが入った場合はこの日常に歪みが生じます。その小さな小さな歪みの積み重ねが突然、鬱へと引っ張って行くことになると思うのです。

そして、もう一つ。意外な落とし穴なのが休日の過ごし方です。休日ってどこかに出かけたりしなければ"ならない"と思ってしまうのです。でもこれは結構危険です。買い物に行くにせよ、遊びに行くにせよ体力が必要です。休む日なのですから、気分転換程度の外出に留めて、ムリに何かをしないようにする必要があるんです。でもゆっくりするというのも、鬱病になるようなタイプの人には難しいことです。常に何かしていないと落ち着かないのですから。

ですから理想的には土曜日は出かける。日曜日は休む。休むにしても何かしてないないといけないから、家でできる趣味(日曜大工とか、読書するとか、靴磨きとか・・・)何かやってて楽しい作業を見つけて没頭できるようにことが必要だと思います。普通の人には嬉しい連休でも鬱の人にはまさに鬱々たるものになる可能性があります。家族が居る人だったりしたら「ああ、また苦しい家族サービスをしなければいけない」とか「ああ、また家内の買い物に付き合わなきゃいけない」とか。そんなことも周りの人は少し理解してくれるとずいぶん助かると思います。

まずは平日の生活を規則正しいものにしてそれを遵守する。休日の過ごし方は(家族との話し合いは必要でしょうが)出来る限り自分の時間を確保させてもらう。これを実践して尚、鬱に引き込まれそうな場合は、上記の通り、事前にセーフティーネットを確保しておくことをオススメします。心のセーフティーネットは国も家族も提供してくれません。これは自分でしか出来ないぶっちゃけシンドイ作業です。しかし"死ねない、死にたくない"と思うのであれば、何か対策を打っておくことをオススメします。

それともう一つ。私だけかもしれませんが、他人との会話が苦手になります。それなりに気心のしれた人とでも二人で対面で話そうとすると、目を合わせられず、気の利いた台詞も言えず、あとで非常にいたたまれない気分になります。でもTwitterなら、FriendFeedなら、対面ではありませんし、考えた上で発言できます。たとえはhaTshさんとは直接面識があるわけではありませんが、今回いただいたDM、以前にいただいたメッセージにどれほど救われたかわかりません。鬱病の人、コミュニケーションに不安のある人にこそ、Twitterみたいな、別に利用を無理強いをするわけではないし、自分の好きな時間にボソっと書き込めるだけというゆる〜いサービスはいざというとき最大のセーフティーネットになるかもしれません。その救いはヘンな話しですが、家族以上のものだと私は思います。こういう方々と知り合えて、沢山のメッセージをもらえる幸運に感謝しつつ、このながーいエントリーが同じような境遇の人の助けになればと思います。

最後に、おそらく昔は鬱病なんて無かったと思うんです。それこそ原始時代なんて鬱病にかかる余裕なんてのはなかったろうし、第2次世界大戦が終わるくらいまでもそんなコトはなかったんじゃないかと思うんですね。何故、イロイロな物が溢れて、生活が便利になって、食べるものにも着るものにも住居にすら困らないこの現代に、このような病気が増えているのかホント不思議です。脳が現代社会について行けていないのか、それともどこかで人間の発展方向が間違ってしまったのか、何故なんでしょう?