雑感-認知的不協和の解消と他者の介在、余白の時間と芸術-

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先般書いた「枠だけの真っ白なキャンバスのような時間」という記事に対して、佐々木正悟さん自ら非常に丁寧にあすなろブログで何と2回に渡り考察していただきました。ありがとうございます。その中で佐々木さんは、
お金や本とも似ています。「心理学書を読むもよし、哲学書を読むもよし、マンガを読むもよし」と衝動的に読みたいものを読むことにすると、「以前きわめて読みたかった本」を買ったことも忘れ、書棚の奥に埋もれさせるにまかせ、アマゾンから書籍を5冊も購入したりします。私はこれがイヤになったのです。
とおっしゃっておられます。さらに
「時間はかなり乏しいリソース」であるから、この方針では全部はできないのです」
ともおっしゃっておられます。が・・・え〜と、ちょっと私が言いたかったことと違うんです。別に全部やらなくて良いのです。何もしなくても良いんです。乏しいけれど持っている使える時間は、ムリしてでも何かを決めて、意志的に使わねばならないのでしょうかという疑問なんです。完全にな〜んにもしない時間と言い方でなければ、ぼーっとするとでもいうのか、完全にリラックスのみをしている状態とでもいうのか、やりたいことを気の向くままにやっているだけの時間とでもいうのか、人から見れば有限で乏しい時間というリソースを無駄にしているだけに見えるような時間を「余白の時間」と呼ぶとして、こういう「余白の時間」は不要なのかと疑問に思うと言いたかったのです。

佐々木さんのおっしゃられるように睡眠という「断絶」のせいで所与時間(起きていて意志的に使える時間)は確かに限られた乏しいリソースであるというのはその通りだと思います。では例えば、その乏しいリソースの範囲内で心ゆくまで(起きてから眠くなるまで)無駄に使うという使い方もあるんじゃないか。とか、範囲内で心ゆくまで(起きてから眠くなるまで)現在の自己の判断に身を委ねる時間の使い方もあるんじゃないかと思うのです。

一例をあげます。私には一回り(補足:12歳差)離れた弟がいます。コイツが小さい頃は可愛くて可愛くてしょうがありませんでした。弟が3歳くらいになった頃から、寝るときに読み聞かせをすることをやりたくて始めました。当時、私は中3ですから、受験が迫っています。読み聞かせをしながら「コイツが寝たら、あれをやらなきゃ」などと考えながら読んでいると弟は一向に寝てくれません。真剣に物語を読まないと寝てくれないのです。真剣に読む余り弟と同時に私も寝ているなんてことは日常茶飯事でした。しかし私はこの時間を(寝てしまった時間も含めて)きっと弟の成長の何か役には立ったろうし、私も楽しかったし良い時間だったと思うのです。おかげで第1志望の高校には見事スベりました(^^;)

恐らくこの例を心理学的には、認知的不協和の解消、「これだけの時間を費やしたのだから何か益がなければ嘘だろ!?」という心の動き、「高校受験に失敗しても弟と一緒にいれたから良かったんだ」という自己正当化にあたる心の動きと説明するのだと思います。しかし、読み聞かせていた弟が大人になった今「あの頃、色んな本を読んでくれたのは1日の内で一番楽しい時間だった」と言ってくれています。相手も楽しかったという思いを共有してくれている。他者が介在し、共有しているので、自己の葛藤だけとは言えないですよね?となると単に私の心の内で起こっている認知的不協和の解消というものとは、いささか話しが逸れてくるのではないかと思うのですが、こういうケースはどうなるのでしょうかという疑問が生じました。あの時間は思い込みで良かったのか、真実に良かったのか?どうなんでしょう??

話しは戻って、「余白の時間」です。これがなければ、それこそ生産性と言う観点から見れば、限りなく生産性ゼロに等しい絵画や彫刻や、誰が読むかも不明な小説や、多くの物語は紡がれなかったのではないかとも思うのです。周りからみたら完全に無駄な時間の使い方じゃないですか、芸術なんて。食べれませんしねぇ。

多くの画家が、貧しいまま亡くなっていって、その後ひょんなことから評価され、今やすごい値段が付いていますが、当時は貧しくても何でも、とにかく「書きたいから書いていた」のではないかと思うんです(でなけりゃ職業考えると思うんですよね)。近い例で言えば、J.K.ローリングさんはハリー・ポッターシリーズを最初から仕事として書き始めたワケではないと聞きます。想像を書き落としたくなったから書いて、出版社に持って行って、それがたまたま売れたわけです。う〜〜んと遡って、石器時代の壁画に書かれた動物の絵は、誰かが「この動物は食ったら旨かった」ということをが何とか残そうとしただけなのかもしれません。何より、多分、最初に絵を描き始めた人を周りの人は「何やってんだ?あいつ?」くらいにしか思わなかったんじゃないかと思うんです。むしろ「そんなことしてる時間があるなら狩りに行け!」と思ったかもしれません(^^;)

もっと突っ込んで、ゴッホが『ひまわり』を描く時「よし!明日は右の葉っぱを30分かけて描こう」とか、ゴーギャンが『タヒチの女たち(あるいは、砂浜にて)』を描く時、「左の女性の手をもうちょっと太くするのに1時間はかかるな」とは考えていなかっただろうし、彼らは描くという行為に時間の制約を設けなかったのではないかと思うのです。共に貧しく苦しい生活の中、豊かさを求めたら他のことをしただろうに、なのに絵を描き続け、あれだけの豊かな作品を残した(残せた)のは、それは所与時間の9割9分までを「余白の時間」とし、その時間を「自分が今やりたいこと」=「描くこと」に投資し続けた結果なのではないかと思うのですがいかがでしょう?

昔も今も、ハタからみたら無駄な時間。本人はその時やりたいからやっているだけ、金になるわけでも、誰かの助けになるでも、役に立つわけでもないこと、でもやりたいことをやっている。別に制限時間を設けるでもなく、とにかくやりたいことをやっている時間。別にやりたいことが複数あってたとしても全部やる必要はないし、それらをリスト化して管理する必要性もない、寝て起きてまたそれを続けてやりたければやるくらいの時間の使い方ってのはどうなんでしょうね?やっぱり今の急流のような時間では考えてはいけないことなんでしょうか?

そんなことを、チマチマと考えていたら、そう言えば「現代芸術を代表する芸術家」ってすぐに浮かびませんでしたし知らないことに気づきました。(皆さん思い浮かびます??)現代芸術の代表作家、現代芸術といえばこの人という、偉大な芸術家が現れない所以も意外にこの辺にあるのかもしれませんね。「忙しい心から芸術は生まれない」と恩師も言ってましたし、芸術に関わるにはあまりにも多忙なのかもしれませんね。現代社会は。

以上、つらつらと雑感でした。

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