書き留めることの原点と、『頑張る』の基準

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のっけから、何ですが、出来るだけリアルに想像してみてください。

あなたの大切な人が白血病と診断され、余命478日と宣告されました。
その時あなたは何をしますか?

架空の話しではありません。これは実際の話です。満田丈一郎君という少年がわずか7歳で白血病と宣告され、478日間に及ぶ闘病の様子がドキュメンタリーとしてTVで放送されたことがあります。さて、先ほどの質問です。愛する息子が白血病と宣告された時、お母さんが取った行動は「日記を付けることとビデオを撮ること」でした。このドキュメンタリーはその日記とその映像をベースに構成されています。

ユビキタス・キャプチャーという言葉はもはや有名なものになりましたし、『大事なことはすべて記録しなさい』『「結果を出す人」はノートに何を書いているのか』『情報は1冊のノートにまとめなさい』など、記録することの大切さを扱った本も相次いで刊行されています。しかし頭で分かったつもりでも、いざやってみると続かないという声も多く耳にします。

「大事なことを記録しろって言われても大事なことなんてそんなにないよ!」という人もいます。でもそれは本当ですか?
私の妹と甥っ子は既にこのブログの幾つかのエントリーで書いたとおり、殺されてしまっているのですが、今一番、私が悔いていることは、甥っ子の写真のあまりの少なさ、妹の記録のあまりの少なさです。

本当に毎日、出産の知らせを聞いて病院に駆けつけた時に撮った二人の写真を見ていないと、まるで最初から居なかったかのような錯覚に捕らわれ、遺体が発見されてからのほとんど狂ったような自分の殴り書きのノートを見ないと、本当に殺害されたのか、あの悲惨な現場は本当にあったことなのか、妹と甥っ子の死に顔すら、どんどん記憶から薄れていってしまうのです。妹が、甥っ子が自分の中から消えて行ってしまう感覚というのは本当に恐怖以外の何物でもありません。

もちろん忘れたい記憶というものもあるでしょう。しかし、今日普通に夕飯を共に食べた家族が明日は居なくなる可能性だってゼロではありません。その時、今日の夕飯で話した会話を覚えているでしょうか?その会話の時の顔は笑顔でしたか?楽しい話題でしたか?あなたは相手にどんな言葉をかけましたか?今日の夕飯はどんなメニューでしたか?これらをもし忘れてしまっていたとしたら本当に後悔しませんか?

こう考えると、ユビキタス・キャプチャーという行為の重みが腑に落ちると思います。大切かどうかは分からない、だけれども未来で振り返った時、今日という日の記録が何も無いというのは本当に恐ろしいことです。これは実体験ですが、たとえ記憶の欠片が残っていても欠片以上にはディテールを呼び起こせないのです。例えば私には幼い頃、家族で行った旅行の記憶。朧気な記憶の欠片があります。しかしそれが、いつのことなのか、どこに旅行に行ったのか、どこに泊まったのか、その日のメニューは何だったのか、妹は笑っていたのか、父や母は笑顔だったか。写真一枚すらないと、もうその朧気な記憶だけを何とか忘れないように、書き記しておくことしかできないのです。本当にあったかどうかもわからない記憶をね。このエピソードに少しでも恐怖を覚えたならば、ノートばかりではありません。今でしたらEvernoteに毎日日記を溜めていくのも、毎日写真を溜めていくのも、毎日音声を残していくのもとても有効な手段です。今すぐ始めるべきです。

先の満田丈一郎君のお母さんは、刻一刻と死が近づいてくる我が子の笑顔、様子、具合、苦しみ、悲しみ、愛おしさ、強さ、優しさ・・・何冊ものノートに書き付けた走り書きの文字の端々から、何とか残そうとする、その必死さをうかがい知ることができます。人がペンを走らせて何かを必死で記録する。その原点のようなものをこのドキュメンタリーから見ることができます。

そして、当事者の丈一郎君です。彼も非常に大きなことを正に身をもって教えてくれます。それは何か?「頑張る」とはどういうことかということです。

これは文章では説明のしようがないことなので、下記のリンク先の動画を見ていただきたいと思います。私は、ここに記録されている丈一郎君の姿こそ「頑張る」ということを体現していると感じます。

巷には何かにつけて「俺は頑張ってる!」「俺は精一杯努力している」という人がいます。でも、その頑張りは、丈一郎君の頑張りと比べたらどうでしょう?丈一郎君の頑張りと比べて、それでも「俺は頑張っている」と思えたらあなたは本当にスゴイ人です。 そうでない部分があるのであれば、それはまだまだ丈一郎君の頑張りには届いていないということでしょう。

丈一郎君は激痛に耐えに耐え、4ヶ月もの間絶食させられ(点滴からの栄養補給のみ)、想像を絶する苦しみの中にあっても尚、自分のことよりも、お母さんを思いやり、妹を思いやり、周囲を思いやり、精一杯笑顔を絶やしませんでした。さて、わずか8歳の少年がまるで菩薩のような慈愛を持って周囲と接するように、私は(あなたは)周囲の人々と接しているでしょうか?そして彼と比肩するほど「生きることを頑張っている」でしょうか?

「そうは言うけど、状況が違うよ」そう言われるかもしれません。しかし、もし自分が丈一郎君の立場だったら、彼のように激痛を堪えて、妹に優しく、お母さんに柔和に対応できるでしょうか?骨髄を取る注射を何回も刺されるのに耐えられるでしょうか?おそらく殆どの人が「無理だな」と思うと思います。丈一郎君の頑張りを見たら、軽々しく「頑張っている」とは言えなくなると思うのです。少なくとも私はそうです。ですから、私は丈一郎君の「頑張り」を【「頑張る」ということの基準】と捉えています。頑張ってるかどうかは、丈一郎君の頑張りと比べてどうかという視点で判断するようにしているわけです。

丈一郎君のお母さんのように、大切な人の今日の笑顔を、今日の言葉を記録していますか?
丈一郎君のように「生きることを頑張っている」と言えますか?


Dairymotionの動画をどうやって貼り付ければ良いのかわからないので(^^;)直接URLを書いておきます。

1/5
http://www.dailymotion.com/video/x82mx7_yyyy-yyyyyyyyyyyy15

2/5
http://www.dailymotion.com/video/x82nf3_yyyy-yyyyyyyyyyyy25_shortfilms

3/5
http://www.dailymotion.com/video/x82ot9_yyyy-yyyyyyyyyyyy35_shortfilms

4/5
http://www.dailymotion.com/video/x82ozn_yyyy-yyyyyyyyyyyy45_shortfilms

5/5
http://www.dailymotion.com/video/x82pgb_yyyy-yyyyyyyyyyyy55_shortfilms

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