『WALDEN 森の生活』読了!

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あけましておめでとうございます!今年もどうぞ宜しくお願いいたします!
新訳版『ウォールデン 森の生活』を読了しました。過去あれほど苦戦し、全く理解できなかった本でしたが、この新訳版でようやく、ようやく少し腑に落ちました。そしてちょっとした発見をしたので、新年一発目はそこから。

ソローは読書について、こう言っています。
本は、書き手と同じひたむきな気持ちで読まねばならず、書き手が込めた深い意味を推し量りながら読まねばなりません。
年末年始の殆どの時間をただひたむきな気持ちでソローの宇宙を少しでもくみ取れるようじっくりじっくり読みすすめました。
ソローは森に自分で家を立て、ほぼ自給自足で暮らします。こうしたシンプルな暮らしを行ったのは「生活にかける時間を徹底的に減らすことで精神にかける時間をできるだけ増やす。」「物質崇拝の社会を客観的視線で検証する。」などが動機でした。
食べることさえ徹底的に簡素化しています。「食欲という欲望の奴隷になって自由を失うのがいや」で、「贅沢の為にお金を稼ぐのがばかばかしいと思った」こと「生活の為に時間を費やしたくなかった」ことなどが理由だと書いています。
さらに、ニュースやゴシップ、町で交わされるうわさ話の類も全く無駄なものとして退けています。

生活をより簡素に必要最低限に留めたソローが選んだのは、能動的な生き方です。こちらが望みもしないのに飛び込んでくるものの中で何が良いもので何が無駄なものであるかの判断が追いつかないままに溺れて流されて暮らすのではなく、自らが選び、自らのためのものの中で暮らそうとしたのです。自らが選択して身につけていく良い情報として古典を読むことと、身の回りの世界を眼を凝らしてつぶさに観察することを薦めています。実際この本も多くの神話や古典を紐解き、引用し、森の動物や昆虫、池のことなど周りの自然をとても丁寧に観察し、とても豊かで充実した生活を送っている様が読んで取れます。

ソローの住まいは自分で建てた、食料保管のための地下室がある、暖炉を付けた一部屋だけの小屋です。そのシンプルな家にあるものと言えば、
ここに私の家具の品目を挙げておくと、ベッド、テーブル、机がそれぞれひとつ、椅子三つ、三インチの手鏡、暖炉の火箸と薪を載せる台、やかん、鍋、フライパン、ひしゃく、食器洗い用ボウルがそれぞれひとつ、ナイフとフォーク二セット、皿三枚、カップ、スプーン、油差し、糖蜜差し、それに漆塗りのランプがそれぞれ一つなどです。
たったこれだけ。でも・・・日本人だったらもっと削れる!と私は思いました。

”和風森の生活”を想像すると、ベッドの代わりに布団(コンパクトにたためる!)テーブルの代わりに卓袱台(折りたたみ可能!)机は卓袱台が担います。椅子は不要。座布団を必要とするか、布団で代用するかですね。暖炉は七輪があれば、布団を卓袱台にかぶせて簡易コタツにすれば暖は取れます。調理器具はまぁ同じようなものかな。でもフォーク二セットは箸一膳で済みます。皿三枚は茶碗とお椀と皿になるでしょう。ランプは蝋燭になるでしょう。と、ココまで考えて一つの風景が浮かびました。

究極的に何も削るものがないところまで無駄を省いた空間・・・そう「侘び茶(草庵の茶)」の世界です。この空間では上下の関係はなく、豊かなもてなしの心で満たされています。「露地」の自然から既にもてなしの心の現れであることも考え合わせれば、千利休が構築した茶道は一種の”和風森の生活”といえるのかもしれません。

庶民の暮らしを考えても、長らく暮らしてきた居間という空間は、リビングであり、ダイニングであり、寝室であり、書斎であったわけですから、当時の日本人は簡素でミニマムな暮らしの達人揃いだったのではないかと思います。もし、こうした質素な生活の反対には豊潤な精神世界があるのだとしたら・・・そんなことを考えていたところ、年末特番を見て、山口百恵さんが「秋桜」を歌っていたのが18歳だということに驚愕しました。なんと大人びた顔をした18歳なんだろうと。改めて検索してみたら、夏目漱石や芥川龍之介、菊池寛、太宰治、三島由紀夫、等々、昔の小説家の写真は皆、もの凄く大人びた顔をし、意志的で強く透徹した目をしていることに気づきました(漱石は諦念か?)。百恵さんはともかく、昔の多くの文豪、文化人の写真を見ると、明らかに今の日本人とは目つきと顔つきが違うということには、多くの方に頷いていただけると思います。

この顔つきの違いは精神の豊かさの差なのでしょうか?長屋→一軒家→アパート→団地→マンションと住まいが変わって行く中、生活はどんどん欧米化し、畳はフローリングになり、コタツはエアコンや床暖房に代わり、あらゆる面で物質的に豊かになり、経済的にも随分豊かになり、内省し精神世界を豊かにする時間はあって然るべきはずなのに、どうして私たちの顔は幼く、昔の人の顔は大人びて意志的なのでしょうか?

ソローがこの本を書いたのは1850年代。浦賀に黒船が来たり、ナポレオンが皇帝になったような年代です。テレビも飛行機も電話もない時代です。そんな昔でもソローに言わせれば、人々は暮らしを複雑にすることから逃れられなくなったと写るそうです。そこでソローは約2年間、町を離れ森に入って、生存に必須なもののためだけに働くという実験を試みる。あえて社会との距離をおき、「最も大切な必要」である「人間を耕す」ために空白の時間を設けた(空けた)わけです。

さて、私は「自らを耕す」時間を持てているのか?生存には不要な物質ばかりに目を奪われていないか?生存に不要な情報に耳を奪われていないか?命を維持する以上に食べてはいないか?生きるために必要な香りを知っているか?近くの木々の成長、動物の成長を感じ取れるか?なにより自分が真に必要なものとは何か思いを巡らせているか?自分のに必要な物を知っているか?答えは全てNoでした。

今の私の置かれている状況では、ソローと同じような生活を送ることはほぼ不可能ですが、身の回りを見直し、自分の生活を能動的なものにできるよう、今年一年、あらゆる自分の中に作ってしまった枠を疑い、できるだけ時間は「自分を耕」すことに使うようにし、何事も慎重に考えながら生活をしてみようと思います。

まだまだ多くの気づきが得られる本です。繰り返し読みつつ発見があればブログでアウトプットしていきたいと思います。

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