必要なのは・・・「死ぬ権利」ではないか?

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NHKの「無縁社会」という番組を漸く見ました。以前放送された時は特殊清掃人の作業風景が妹の事件現場とダブりフラッシュバックとパニック障害の併発を食らったので、今日はかなり覚悟して、準備して見ました。見た結果、うん、やっぱり色々考えてしまいました。

無縁とは言え、字面通りに何処にもつながっていない人は極めて稀だと思います。ホームレスでもクチコミネットワークがありますから、本名は知らずともその人が居ることは知っている状況です。仮名を名乗っている人ほど身分証明書となるものを肌身離さず持っているものですし。

しかし、私は妹の事件を不動産屋さんと警察から連絡を受けるまで気づきませんでしたし、夢にも思いませんでした。最後に妹と会ったのは彼女が殺される3ヶ月前。最後に妹と話したのも多分、同じ日なはずです。要は3ヶ月電話等の連絡を取っていなかったわけです。結果、妹と甥っ子は夏場に1週間、密室の室内で居たので、「異臭」で隣人が気づいてくれましたが、冬場だったら、3ヶ月前に殺されていたとしても、3ヶ月間全く気づかないこともありえたわけです。実体験として、家族という繋がりが希薄化していることは確かだろうと思います。

どれくらい繋がりがあるか考えてみると、私には故郷はありませんので、故郷との繋がりはありません。地域社会との繋がりは、同じマンションにああいう人が居るという程度には数名に知ってもらっているくらいです。個人情報規制法とやらを気にして、マンション住民の名簿すら作れませんから、私たちの顔は知っていても名前まで知っている人は数える程度でしょう。会社との繋がりはまだありますね。現役で働いてますし。家族との繋がりは家内が居ることの他には、弟と繋がっています。家内の親族との繋がりもありますね。ネットにも繋がりは有していますね。

それでも・・・例は悪いですが、私が家内を殺して私も自殺したとして、いつ発見されるかと問われれば、結構怖いものがあります。金曜日の夜に実行すれば、翌週の月曜若しくは火曜には『会社の人』が来てくれる"かも"しれません。GW前に実行すれば当然休みの間は誰もわからないでしょうから、最大2週間程度気づかれないことも考えられます。現役で働いていてもです。弟や家内の親族と毎日連絡があるわけではありませんから、現時点で、私たち夫婦に取って一番強い繋がりは『会社の人』ということになりそうです。

そして、今、家内が何かで死亡したとして、その遺骨をどうすれば良いのか?私たちは自分たちの墓を持っているわけではありませんし、お墓ってスゴイ高価なものらしいですから、遺骨のまま自宅に持っているしかないのかもしれません。夫婦揃って死んだ場合、弟が処分の一切合切をするなんてことはまだ無理でしょうから、ホント弟に迷惑かけない方法を考えないとなぁと思います。

この問題自体は色んな観点から考察できると思います。ネットでザッと見た限り、多くは経済的な観点からの考察だったり、共同体だとかコミュニティだとかの問題だとかの切り口が多いようですね。解決法としてはそれこそ昔のような人の「縁」を再建する工夫が必要だとする人もいるようです。でもこの解決法は無理だろうと思います。『プライバシー』や『個人情報』の名の元に本名やら何やらを皆必死に隠して守っているわけですから、そりゃ人と繋がる機会は減る一方ですよ。昔のように人の家にズカズカ入ってくるようなご近所さんとの「縁」なんてもう再建できるわけないとおもいます。

そこで、極論で即物的で、浅薄な意見ですが、この問題を解決するには、私は「死の選択の自由を認める」ことが一番良いのではないかと思います。

会社に属すか属さないかは自由に選択可能。
家族との交流の密度は自由に選択可能。
結婚するかしないかも当然自由に選択可能。
地域社会に関わるか関わらないかも選択可能。
その他で知り合いを作っておくか否かも選択可能。
しかし、「死ぬ選択の自由」がないのは何故だ?と思うのです。

死ぬ選択の権利があれば、本人の意志で、本人の希望で「安楽死」を選択する自由があっても良いんじゃないかと思うんです。持ち物は自分で処分しておけますし、死んだ後、献体として欲しいのか、どこかの業者さんに火葬を依頼するのか、親族に依頼するのか、どこの墓に入れてもらうのか、もしくは散骨して欲しいのか、共同墓地か等のことを決め、必要経費を払い終え、諸手続を全て済ませておいた上で「○月○日xx病院で安楽死させてもらうから、後は打ち合わせ通りヨロシク」とした方がよっぽど良いのではないかと思うのです。

番組内で放送された人は皆「いつ死ぬかわからない不安」と戦っています。NPOと生前に契約して、遺品の処分等を頼むという人が紹介されていましたが、あれはあくまでも「後始末を頼む」ということであって、いつ死ぬかはわからないわけです。最悪、自分が死ぬより先にNPOが破綻することだってあり得ないことではないわけですから、何かヘンな契約だと感じました。そんなことをするくらいだったら、「いつ死ぬのか」を自分で決められれば、全ての見通しが立つわけだし、そういう選択肢があるとわかっていれば、この不安は解消できるのではないかと思うわけです。

若い人が希望したらどうするのか?という疑問もあるでしょうが、たとえば権利行使の対象年齢を60歳以上として、その年齢に達していない人はカウンセリングを受けて、1年~2年経過を観察し、それでも希望したら認めるとか、セイフティーネットを張っておけば良いと思います。カウンセラーが全力でサポートして、「それでも」というならちゃんと認めて、死の権利を行使させてあげるべきだと思いますし、それで良いじゃないかと思います。

不慮の事故や、脳梗塞とか心筋梗塞とか突発的な事態は別としても、自分の最期を自分で決められないのは不自然だと私は感じます。

我が家では、お互いに「脳死状態・重度の介護が必要な状態・目を背けたくなるような痛みに襲われている場合は、(家内の・私の)判断で安楽死させて良い」と効力はないでしょうが、そんな事態になった時、判断を誤らないように、契約書を交わしています。介護疲れ、老々介護等、何故そこまでして生かせておかねばならないのかと考えるからです。私も家内も痛いのは嫌ですし、色んな管を付けてまで生きていたいとは思っていません。お互いがお互いの負担になるようなら、遠慮無く死なせてくれて良いと私たちは決めています。

あの放送を見ていると、自分の死の後始末をしてもらうために、親族・結婚・会社・地域等と無理にでも繋がっておかないといけないかのように、私には写りました。でも人との縁や繋がりって、本来、そんな歪なものではないでしょう?だったら、繋がるも繋がらないも自由、いつ死ぬ、いつまで死なないのかも自由とした方が私には自然だと思うのです。

人生の幕引き、ファイナルカーテンコールの有り様は自分で決めたいし、闇雲にどんな姿でも生きていたいとは私は思いません。モノは何でもあるけど希望がないこの国で、希望が持てなくても生きていなければならないこと。「死の選択の権利」が認められていないことが、人生全般を覆っている暗雲なのではないかと思います。

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