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私が、新卒で入った会社で、最初に部署異動を経験したのは2年半経ったときでした。当然上司も変わったのですが、この人は徹底的に手順と細部にこだわる人でした。この細かさは尋常ではなく、その会社の中で「一緒に仕事をしたくない人ランキングベスト5」に常に名を連ねる、悪い意味で有名な人でもありました。例えば伝票にトナー1本と書くか、トナー1個と書くか、本と個の違いで怒られるのです。某社のは筒状だから本で良くて、某社のは筒状ではないから個だと。いやマジです。
今までの上司はどちらかというと放任主義で、責任は取るから自由にやれという人だったので、このギャップに随分悩んだものです。
あまりに細かく小うるさいので、一回飲みに誘い出し、膝をつき合わせて面と向かって文句を言った事があります。じっくり私の意見を聞いた後、その小うるさい上司が言った言葉はとても意外なものでした。
俺は今、お前には仕事の正しい手順を覚えてもらいたいんだ。お前は伝票ひとつ丁寧に書いていないだろう?その適当に書いたモノを次の人が受け取ったあとのことを考えていないだろう?モノと一緒に動く伝票をいい加減に書いていたことがミスに直結する場面だってある。正しい手順を知らないと、飛ばしてはいけない大事な手順を無駄だ、近道だと勘違いする危険性があるんだ。近道を探しスピードアップする事は、歳を取っても出来る。むしろ経験を重ねた年寄りだからできる技なんだろうと思う。お前くらいの時は、ウサギじゃなくてカメのように地道な歩みが必要だと、俺は思うんだ。
この時の私は営業で実績も作り、とにかく「売る」ことばかりに目を向け、事務作業を舐めていたところがありました。報告書や社内で回す伝票、小口精算書類の類は邪魔なものだと決めつけていましたので、これには反省させられました。以来、この人がいう「正しい手順」を身につけるべくとにかく丁寧に仕事をするようにし、ようやく売るばかりではなく、会社全体の人の動き、モノの流れ、伝票の流れ、お金の流れなどに目を向けることができるようになりました。このことは営業の最前線を退き、補給兵や伝達兵のような裏方仕事についた今、実に役にたっています。営業目線で裏方仕事が出来る人はあまり居ませんので、これは私のちょっと変わった武器になりつつあります。
私はまだ長時間働けるだけの馬力が回復してないので、とにかく定時にあがって、身体と頭を休める為に、近道を見つけ、効率化を図るようにしていますが、最近この上司の言葉を思い出し、週次レビューの際に必ずこう問いかけるようにしています。
「これ、省いたらどんな影響があるかな?」
大した影響はないように見えても、意外に省いたらヤバイ作業というのもあります。「近道みーっけ!」と突き進む前に、その道がどうなっているか、地図で調べる余裕が必要なのかもしれません。スピードアップは歳をとったからこそできるという言葉も、なかなか興味深いと今になって思います。経験から見つけ出された近道と、ひょんなことから見つけた近道では、安全度が違うのかもしれません。
とにかく早く!最短距離を!より効率的に!といったかけ声が大声で叫ばれていますが、効率化した先に何をするのか意識せず、無闇矢鱈に近道を探し全速力でばかり走っていると、その近道には何か罠が仕掛けられているかも知れません。勿論カット出来る作業、無駄な作業はあるでしょうが、一見無駄に思えるその作業がゴールまでのプロセスの何に関与しているのか、良く考える時間も必要ではないかと思います。近道だと思って進んだら、獣道に迷い込んでいたなんてことにならないよう、ちょっとスピードを落として、じっくりプロセスを見直すような週次レビューをたまにしてみてはいかがでしょうか?
社会人になってずっと営業畑を歩んできましたのですが、鬱病になってからというもの、人とスムーズに話すことが苦手になってしまい、最早コンプレックスになりつつあります。
具体的には、名刺交換などの際、笑顔になれず、ムリをして笑顔を作ろうとしても、顔がピクピク引きつってしまったり、人と話をしている中で目を見て話せなくなってしまったり、手の震えがあったり、会話を続けられなくなってしまったりという以前からは考えられないような症状があるのです。
これがですね、過去の自分からは想像だにできないことでして、実に情けないやら、恥ずかしいやらでどうしようもないのです。ですからできるだけ見知らぬ人には会わないよう、会ってもミスをしないよう、注意深く接し、できるだけ人の機嫌を損なわない程度に避けるようにしていました。
しかし、ようやくこれを何とかしたいと思い始め、主治医に克服方法を尋ねたところ、「その反応は心や身体の自然な感情や表現なのだから、無理に排除しようとするのではなく、そのまま自然にしておく、あるがままにしておく態度を養うようになさい」と言われました。
要は「気にしないで、人といっぱい会って練習しろ」というワケです。「アドバイスになってね~!」と思うのですが、この手の症状の対処法をネットで調べてもなかなか具体的な体験記みたいのは見つかりません。(それを売ろうというサイトはいくつも見つかるのですが・・・)
とりあえず現状を打破する手段として、少しでも興味を持ったことには、勇気を振り絞って、飛び込んでみようと仕事・プライベート問わず、アチコチに顔を出すようにしています。が、これはなかなか難しくて上手いこと軌道に乗せられず悪戦苦闘中です。どなたか、こういった対人恐怖症に近い症状を克服するハックをご存じのかたは、是非とも教えていただけたら幸いです!
深希さん主宰のブログ『*ever blue*』の「年齢」というエントリーを読みました。「全く同感」と思ったので、感じたことを。
このエントリーを読み終えた時、真っ先に浮かんだのは父の背中でした。私は両親が23歳の時に生まれたのですが、34歳になった今、考えてみると、34歳の時点で父は、母と、11歳の私、5歳の妹、そして母のお腹には弟がいたことになります。 当時の父の背中を思い出すと、やはりとてつもなくでかかったし、超えられない壁でした。妹の葬儀の時数十年ぶりに会った父の背中は大分小さくなってしまっていましたが、じゃぁ、今の私が当時の父と同じように威厳のある大きな背中をしているかと考えれば、暗澹たる気持ちになります。私が悪戦苦闘している頑張りなど、高卒で上京し、家族を養い、日々仕事に明け暮れた父の頑張りには、とても遠く及ぶモノではありません。
社会に出たら、年齢なんて関係ないとは思っていますが、それは虚勢なのかもしれません。やはり同年齢の人が起業していたり、雑誌や書籍を出しているのを見ると、「嗚呼、何て俺ってちっちゃいんだろうなぁ・・・」と思います。
3〜4年ほど年上の『Lifehacking.jp』の@mehoriさんや、『ライフハック心理学』の@nokibaさんの背中を見ても、とても追いつける気がしません。ましてや、身近なお手本たる営業本部長の大きな背中に至っては遙か彼方の頂です。
そして、年下を見ても、『R-style』の@rashita2さんや、『Hacks for Creative Life!』の@beck1240さんの知性や感性、努力、発想力、行動力、どれを取っても完敗だなぁと思うことばかりです。
特に得意な分野やスキルがあるわけでもなく、広大な知識を持っているわけでも、深い洞察力や、鋭い文章力もあるわけでもないことは、ず〜んと落ち込みますが、それでも、今何とかかんとか生きているし、もう少し生きていたいし、生きている以上はまぁきっと私にもどこかしら伸び代があると信じて、今置かれているフィールドで悪戦苦闘・七転八倒するしかないのだろうなぁと思いました。
しかし・・・何でみんなスゴイんだろう?やっぱり私がサボっていたせいなんだろうなぁ。中学は2年生くらいの頃からサボってたし、高校は半ば教師公認でサボっていたし、大学でも勉強した記憶ないし、殆どの授業サボってたもんなぁ・・・。ヤクザ屋さんとのパイプを持つことの威力とか、歌舞伎町の裏とか、夜の山手通りの人間模様とか、ホストクラブの裏話とか、クラブのママさん達の苦労話とか、ホームレスの暮らしぶりとか、そんな知識しかないもんなぁ。どれも使えない知識ばっかりだ(笑)やっぱり全科目、もう一度、勉強しなおそうかなぁ(-_-)

NHKの「無縁社会」という番組を漸く見ました。以前放送された時は特殊清掃人の作業風景が妹の事件現場とダブりフラッシュバックとパニック障害の併発を食らったので、今日はかなり覚悟して、準備して見ました。見た結果、うん、やっぱり色々考えてしまいました。
無縁とは言え、字面通りに何処にもつながっていない人は極めて稀だと思います。ホームレスでもクチコミネットワークがありますから、本名は知らずともその人が居ることは知っている状況です。仮名を名乗っている人ほど身分証明書となるものを肌身離さず持っているものですし。
しかし、私は妹の事件を不動産屋さんと警察から連絡を受けるまで気づきませんでしたし、夢にも思いませんでした。最後に妹と会ったのは彼女が殺される3ヶ月前。最後に妹と話したのも多分、同じ日なはずです。要は3ヶ月電話等の連絡を取っていなかったわけです。結果、妹と甥っ子は夏場に1週間、密室の室内で居たので、「異臭」で隣人が気づいてくれましたが、冬場だったら、3ヶ月前に殺されていたとしても、3ヶ月間全く気づかないこともありえたわけです。実体験として、家族という繋がりが希薄化していることは確かだろうと思います。
どれくらい繋がりがあるか考えてみると、私には故郷はありませんので、故郷との繋がりはありません。地域社会との繋がりは、同じマンションにああいう人が居るという程度には数名に知ってもらっているくらいです。個人情報規制法とやらを気にして、マンション住民の名簿すら作れませんから、私たちの顔は知っていても名前まで知っている人は数える程度でしょう。会社との繋がりはまだありますね。現役で働いてますし。家族との繋がりは家内が居ることの他には、弟と繋がっています。家内の親族との繋がりもありますね。ネットにも繋がりは有していますね。
それでも・・・例は悪いですが、私が家内を殺して私も自殺したとして、いつ発見されるかと問われれば、結構怖いものがあります。金曜日の夜に実行すれば、翌週の月曜若しくは火曜には『会社の人』が来てくれる"かも"しれません。GW前に実行すれば当然休みの間は誰もわからないでしょうから、最大2週間程度気づかれないことも考えられます。現役で働いていてもです。弟や家内の親族と毎日連絡があるわけではありませんから、現時点で、私たち夫婦に取って一番強い繋がりは『会社の人』ということになりそうです。
そして、今、家内が何かで死亡したとして、その遺骨をどうすれば良いのか?私たちは自分たちの墓を持っているわけではありませんし、お墓ってスゴイ高価なものらしいですから、遺骨のまま自宅に持っているしかないのかもしれません。夫婦揃って死んだ場合、弟が処分の一切合切をするなんてことはまだ無理でしょうから、ホント弟に迷惑かけない方法を考えないとなぁと思います。
この問題自体は色んな観点から考察できると思います。ネットでザッと見た限り、多くは経済的な観点からの考察だったり、共同体だとかコミュニティだとかの問題だとかの切り口が多いようですね。解決法としてはそれこそ昔のような人の「縁」を再建する工夫が必要だとする人もいるようです。でもこの解決法は無理だろうと思います。『プライバシー』や『個人情報』の名の元に本名やら何やらを皆必死に隠して守っているわけですから、そりゃ人と繋がる機会は減る一方ですよ。昔のように人の家にズカズカ入ってくるようなご近所さんとの「縁」なんてもう再建できるわけないとおもいます。
そこで、極論で即物的で、浅薄な意見ですが、この問題を解決するには、私は「死の選択の自由を認める」ことが一番良いのではないかと思います。
会社に属すか属さないかは自由に選択可能。
家族との交流の密度は自由に選択可能。
結婚するかしないかも当然自由に選択可能。
地域社会に関わるか関わらないかも選択可能。
その他で知り合いを作っておくか否かも選択可能。
しかし、「死ぬ選択の自由」がないのは何故だ?と思うのです。
死ぬ選択の権利があれば、本人の意志で、本人の希望で「安楽死」を選択する自由があっても良いんじゃないかと思うんです。持ち物は自分で処分しておけますし、死んだ後、献体として欲しいのか、どこかの業者さんに火葬を依頼するのか、親族に依頼するのか、どこの墓に入れてもらうのか、もしくは散骨して欲しいのか、共同墓地か等のことを決め、必要経費を払い終え、諸手続を全て済ませておいた上で「○月○日xx病院で安楽死させてもらうから、後は打ち合わせ通りヨロシク」とした方がよっぽど良いのではないかと思うのです。
番組内で放送された人は皆「いつ死ぬかわからない不安」と戦っています。NPOと生前に契約して、遺品の処分等を頼むという人が紹介されていましたが、あれはあくまでも「後始末を頼む」ということであって、いつ死ぬかはわからないわけです。最悪、自分が死ぬより先にNPOが破綻することだってあり得ないことではないわけですから、何かヘンな契約だと感じました。そんなことをするくらいだったら、「いつ死ぬのか」を自分で決められれば、全ての見通しが立つわけだし、そういう選択肢があるとわかっていれば、この不安は解消できるのではないかと思うわけです。
若い人が希望したらどうするのか?という疑問もあるでしょうが、たとえば権利行使の対象年齢を60歳以上として、その年齢に達していない人はカウンセリングを受けて、1年~2年経過を観察し、それでも希望したら認めるとか、セイフティーネットを張っておけば良いと思います。カウンセラーが全力でサポートして、「それでも」というならちゃんと認めて、死の権利を行使させてあげるべきだと思いますし、それで良いじゃないかと思います。
不慮の事故や、脳梗塞とか心筋梗塞とか突発的な事態は別としても、自分の最期を自分で決められないのは不自然だと私は感じます。
我が家では、お互いに「脳死状態・重度の介護が必要な状態・目を背けたくなるような痛みに襲われている場合は、(家内の・私の)判断で安楽死させて良い」と効力はないでしょうが、そんな事態になった時、判断を誤らないように、契約書を交わしています。介護疲れ、老々介護等、何故そこまでして生かせておかねばならないのかと考えるからです。私も家内も痛いのは嫌ですし、色んな管を付けてまで生きていたいとは思っていません。お互いがお互いの負担になるようなら、遠慮無く死なせてくれて良いと私たちは決めています。
あの放送を見ていると、自分の死の後始末をしてもらうために、親族・結婚・会社・地域等と無理にでも繋がっておかないといけないかのように、私には写りました。でも人との縁や繋がりって、本来、そんな歪なものではないでしょう?だったら、繋がるも繋がらないも自由、いつ死ぬ、いつまで死なないのかも自由とした方が私には自然だと思うのです。
人生の幕引き、ファイナルカーテンコールの有り様は自分で決めたいし、闇雲にどんな姿でも生きていたいとは私は思いません。モノは何でもあるけど希望がないこの国で、希望が持てなくても生きていなければならないこと。「死の選択の権利」が認められていないことが、人生全般を覆っている暗雲なのではないかと思います。

今日、家内の洋服を買いにデパートへ行っていました。これが…果てしなく長いんです。毎回毎回。
そこで今日に備えて、前々から「欲しいもののイメージとか、質感とかを、雑誌やネットでチェックしてその切り抜きを持って買い物に行こう」と提案していまして、家内も了承し、あれこれ研究に励んでいたのです。ですから、期待していたわけですよ。サクっと買い物を終えて、家に帰ってこれるだろうと。
しかし・・・デパートの端から端まで1フロアー2往復するのは基本。複数のデパートを何回か往復するのも同じ。要は今回もいつもと全く同じなのです_| ̄|○ ナンデ?ナンデ?と思って「事前調査はどうなってるの?」と聞いたところとても意外な答えが返ってきました。
家内曰く。「だ〜って、”雑誌は参考にならない”って確信しちゃったんだもん。最初はこの記事みたいなジャケットを探して、似たようなのを試着したけど似合わなかったでしょ?だから、私は確信したわけ。雑誌に載っている洋服は、モデルさんが着ているから素敵なの。私が着たら違うモノになっちゃうの。だから地道にローラー作戦で探すしかないの」
ウチの家内ですが・・・身長は152cmと小さく、横幅には矢口真里さんをもう少しふくよかにしたような体型なので、確かに雑誌のモデルさんとは誰が見ても間違いようの無いくらい、全く違います。そして、家内のような「身長の低い人向けの雑誌は無いのだ」と言うのです。
Googleで色々検索しても、知りたい情報である「家内自身が着たらどうなるのか、どう見えるのか」というのはわからなかったのだそうです。
妙に納得してしまったので、諦めて家内の地道なローラー作戦につき合いテクテクテクテク歩きながら個人レベルで作る、e-Bookの可能性に思いを馳せていました。
例えばウチの家内に色んな洋服を着せて写真を取り、クビから上は無い状態の写真がダーッと並んでいる雑誌を作る。読者は自分のクビから上の写真を撮って、クビ無し写真雑誌に、自分の顔を重ねていくことで、同じ身長152cmの自分が着たらこんな感じになるというイメージが掴めるニッチな雑誌が作れるんじゃないか。とか、ウエストサイズ別、ヒップサイズ別なんて切り口で、流行のスカートを着たらどういうシルエットになるかとか、スーパーニッチな"e-雑誌"を個人レベルで作れたら、そういう雑誌を欲しいという人はいるんじゃないかな?と思ったりしました。
男性でも同じような情報を必要としているかもしれませんね。身長別、ウエスト別「ユニクロ+無印良品で勝負服をコーディネート」とか、「ラペル幅やゴージラインの違い」等を実際自分の顔を合わせて、どういう印象になるか確かめられるものなどを作ったら意外にウケるかもしれません(^^;)
12,000歩以上歩き、徐々にしかし確実に増えていく荷物を黙々と持ち続けながら、ブログではちょっと難しいけれど、雑誌には出来ていること。そんなことを個人レベルでちょっとデザインして体裁整えるだけで作れて、iPadで見られるような世界が来たら、普通の雑誌ではカバーしきれない、スーパーニッチだけど、「それ待ってた!」という日常に密接した情報っていっぱいあるかもしれないなぁと思いつつ、でも洋服はコーディネートアプリみたいのがあれば良いのかなぁ等、最後の方は朦朧とした意識で考えていました。
取り急ぎ、どなたか152cmの女性向けの洋服雑誌を作って下さい。ホント疲れた・・・。

このところ、大分気持ちの浮き沈みの波が安定してきていて、普通に仕事をこなした後も、消耗しきってしまうということも減ってきました。そうなると不思議なもので少し欲が出てきます。私の目下の欲は「円滑に必要なだけのコミュニケーションを取れるようになること」です。従って、書店でもその手のジャンルの本を手に取り、日常のあらゆることを、その視点で見るようになっているのですが、その過程で、何だか違和感を覚えました。
私が感じる違和感は「現代の日本人は饒舌に過ぎ、不要なコミュニケーションに翻弄されているのではないか」という事です。そしてインターネットと携帯電話の普及が、饒舌さを加速させ、不要かもしれないコミュニケーションを増幅させているように感じてしまうのです。
同じマンションに住むお母さんネットワークを通じて聞いた話しですと、今時の小学生や中学生は、毎日何十、何百通もメールを打つそうで、それも即時返信が最早当たり前であり、マナーになってしまっているそうです。食事中もケータイは手放さず、電源を切ることなんてありえないことらしいです。さらにMixiやプロフ(ってのがあるんですか?)では読み逃げ厳禁だそうで、「足あと返し」だとか「コメント返し」をしなければ瞬時にイジメのターゲットになってしまうのだそうです。
さらに、愚弟の話によれば、今時の恋人の間で交わされるメールの量は尋常ではないらしく、まるでお互いがお互いを24時間体勢で監視し、万が一にも連絡がつかないと、それはそれは大変な揉め事に発展するというカップルも多いのだそうです。(愚弟には彼女が居そうにもないので、当事者になったことはなさそうですが)
普通のビジネスパーソンを考えても、仕事で百通前後のメールを送受信し、何十という電話に対応し、上司や部下、同僚との会話はしなければならないし、顧客や協力会社との面談・商談はあるし、加えて、セミナーや勉強会にも行っている人もいるわけですから、それはそれは膨大な数の言葉のやり取りを毎日行っているわけです。
もう、コミュニケーションの『量』は十分。お腹いっぱい。これ以上食べたら吐いちゃうよと言いたいところです。しかも今の言葉のやり取りはファストフードのような言葉ばかりじゃないでしょうか?ジャンクフードならぬ、ジャンクコミュニケーションとでも言いたくなるような。
ちょっと今日交わした言葉のやり取りの『質』に目を向けてみてください。今日話したものの中で、ハッとする言葉はありましたか?琴線に触れる言葉はありましたか?目から鱗の言葉はありましたか?逆に相手に気づきを与えるような言葉を投げかけましたか?あなただからこそ言える言葉を発しましたか?・・・意外にないと思うのです。何と言うか、じっくり手間暇かけて作られた手作り料理のような『上質』なコミュニケーションが少ないのではないかと思うのです。
とは言え、残念ながら、私は『質』を上げる秘策を持ち合わせているわけではありません。ただ会話には、「情報の伝達」という機能だけではなく、「関心」という「心理的資源」の交換としての機能があるのではないかと思います。よって相手にちゃんと関心を持って接すること、相手の話を関心を持って聴くこと。この2つを心がけてみようと思っています。量を減らすことは本当に難しいことですが、メールは重要なもの以外返信しないとか、会議を短くするとか、無駄話はしないし乗らないとか、商談内容を長さではなく密度で考え直してみるとか、地道なことをやるしかなさそうですね。
ちなみに、ヘンリー・D・ソローは著書『森の生活』の中でこんな言葉を残しています。
私たちは、わざわざ寄り集まって暮らし、邪魔し合い、ぶつかり合い、躓き合います。私の考えでは、私たちは社交のために互いに尊敬できなくなっています。社交を少なくすれば、大切なことを伝え合う、心をこめたコミュニケーションができるでしょう。
ほんの一瞬でも、お互いの立場から世界を見ることができれば奇跡が起こるだろう。