雑感ー『便利』が生み出す副作用ー

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世の”平和度”を測るのに「精神疾患」と「犯罪件数」が指標として参考になるという話しを聞いたことがあります。戦争や災害などの非常時には精神疾患は極端に減るのが普通です。ノイローゼというのは余計なことをあれこれ思い悩んで起こるものです。実際に危機に直面するとその対処が最優先事項ですからノイローゼは起こらない。その代わり、強盗とか殺しとかの犯罪という、もっと具体的な行動となって現れるというのです。
つまり、平和であればノイローゼの人は増えるかもしれないけど、犯罪率は下がる。平和でなければノイローゼは減るけれど、犯罪が増えるというわけです。学術的裏付けはわかりませんが、一応筋は通っているように感じます。

今の日本はどうなんだろう?と、犯罪率の推移はどうか、法務省のサイトで『犯罪白書』を見たところ、認知件数・発生率の部分で、法務省はこう分析しています。
刑法犯の認知件数は,平成8年以降毎年戦後最多を更新し,14年に369万3,928件を記録した。その後は毎年減少し続け,20年は前年より15万7,532件(5.9%)減少となったが,戦後を通じて見れば,まだ相当高い水準にある。
刑法犯の発生率の動向は,認知件数とほぼ同様である。平成10年(2,127.2)以降,毎年戦後最高を更新し,14年には2,897.5を記録した。翌15年から低下に転じ,以後,毎年低下し続け,20年は1,984.0(前年比122.1p低下)となった。
毎日悲惨なニュースが報道されますので、犯罪件数は右肩上がりで伸びているように思えますが、平成14年をピークに徐々に減っているけれども、以前として、高い水準だのことです。(ということは、平成14年までは平和ではなかったとも言えますねぇ)

では、一方のノイローゼ(含む鬱病患者)はどうなのでしょうか?厚生労働省には具体的なデータは見つかりませんでした。警察庁に自殺統計という資料があったので、その元データと分析結果を検索したところ、平成20年のデータですが、このような結論になっていました。
1年間に自殺した人は前年に比べ2.9%(938人)増の3万3093人で、このうち「鬱病(うつびょう)」が原因・動機とみられる人が約18%に当 たる6060人に上り最多だった。
また、新聞記事なので、データの根拠としてはどうなのかアレですが、読売新聞が2010年1月7日に「うつ百万人。影に新薬」という記事を載せています。必要なところだけ抜き出すと、
・うつ病患者が100万人を超え、この10年間で 2・4倍に急増している。
・国の調査では、うつ病など気分障害の患者は、 2000年代に入り急激に増えており、一概に不況だけの影響とは言えそうにない。
・抗うつ薬市場は1999年に新規抗うつ薬 「SSRI」が登場してから急伸している。
・欧米でも、この薬が発売された80年代後半から 90年代初めにかけ、患者の増加がみられた。
・うつ病啓発キャンペーンで精神科受診の抵抗感が 減った一方、一時的な気分の落ち込みまでうつ病だと思う人が増えた。
・精神科診療所の医師に対する調査では、約8割の 医師が、うつ病の診断が広がり過ぎていることに懸念を示した。
とのことです。ともあれ、国の調査でも増えている(一体どこの省のデータなのか不明ですが)ということは言っても良さそうです。

犯罪数も高水準でキープしている。精神疾患の人も増えている。ということになりますよね。となると、冒頭の考え方では説明の付かない、どうにもおかしなことです。今は「平和だと言えなくもないけれど、平和ではないとも言える」というおかしな事態ということです。

ふと、ある仮説が浮かびました。それは「便利は人の心を蝕むという副作用があるのではないか」という仮説です。

我々の先人達は一生懸命に脇目もふらずに働きました。その目標の究極は、働かなくても暮らせる豊かな社会を作る為と言っても良いのではないかと思います。そしてこの目標は現在の日本では、ほぼ達成したと言っても良いのではないかと思います。
テクノロジーはどんどん進歩し、家電製品はもはや万能といっても良いでしょう。
家電にできないことと言ったら、洗濯物を畳んでしまうことくらいではないでしょうか?
インターネットや携帯電話なんて、もう無かった頃はどうやって仕事してたのかわからないくらいです。
スーパーに行ったら、世界各国から輸入されたものが山積みです。もう「旬の時期だから食べ逃したらイカン!」という旬の食べ物の本当の旨さがわかる自信がもう私にはありません。水すら無菌状態のミネラルウォーターが当たり前になりました。


ニートという言葉があります。教育機関に所属せず、雇用されておらず、職業訓練に参加していない者のこと、だそうです。報道では何やら問題視されていますが、かなり極論ですが、角度を変えて見ると、ニートって実はスゴイことだとも言えると思うんです。その人の生活費がどこから出ているのかというのはその人の問題ですから考慮外とすれば、働かないで暮らせる人が増えたといえるわけでしょう?それは社会が豊かになったということで、喜ぶべき事態とも言えるのではないでしょうか?

しかし、これは本当に「進歩」と言っていいのだろうかと最近思うのです。地球環境を考えるなら、一個一個ビニールで包装されたお煎餅なんて何故そんな包装にしているのかわかりません。お肉やお魚はなんで発泡スチロールのトレイに乗ってる必要が本当にあるんでしょうか?季節に左右されるはずの食物が一年中並んでいることに違和感を覚えませんか?

身の回りの持ち物も見直していても、違和感を覚えるものが沢山あります。例えば、
炊飯器・・・我が家に炊飯器はありませんが、保温するということだけで電気を消費するのはどうなの?と思います。
洗濯機・・・別にお風呂入った時に手洗いすれば良いんじゃないの?と思います(我が家はバスタオルみたいな大物や疲れ切っている時以外はそうしてます)
掃除機・・・箒とはたきと雑巾が一番だと思うのですが・・・超経済的でしょ(笑)


ヘンリー・D・ソローは著書『ウォールデン 森の生活』の中でこんな言葉を残しています。
私は訪れて来る人たちの違いに気付きました。少年や少女、それに若い女性はたいてい、森にいるのがうれしそうでした。彼らは池を覗き、 花をみて何事かを知り、時間を上手につかいました。
 ところが仕事を持つ人は、農民でさえ、森にひとりでいることがとても気になるようでした。仕 事のことばかり考え、私が他の人から遠く離れて暮らすことに、絶えず触れました。彼らは森を散歩するのもいいものだ、と言いながら、楽しんでいませんでした。彼らは暮らしを守るのに忙しく、心を仕事に占領されています。
(第六章「訪問者たち」より引用)
” 暮らしを守るのに忙し”く、生きることを楽しむという力がどんどんと弱まって行っているというのが現代社会なのかもしれません。さらにつけ加えるなら、便利になればなるほど、生きる力が"弱まる"のではないか、だから心を病む人が増えるし、外にはけ口を求め犯罪に走るのかもしれないと思うのです。

不便なことは確かに大変です。炊飯器も洗濯機も掃除機もスーパーに山積みになっている食品も、重宝する調理器具も、みんな不便で大変なことから解放してくれた!と喜ばれたものだと思うのです。しかし、皮肉にもそのおかげで、身体を動かす機会が減りメタボリックなんて言葉が生まれ、余りにもクリーンな環境で育つが為に子どもの免疫力は落ちてきていると聞きます。旬の味覚を堪能する舌の鋭敏さがなくなり、食べることに至っては、調理されたものが売っています。
こうした過剰な便利さが、「
平和だと言えなくもないけれど、平和ではな いとも言える」という奇妙な事態を起こしている原因、心も身体も病んでしまう原因なのではないかと思ったのです。

もう一度不便に戻ろうぜ!と言う気はありませんが(戻れないでしょうしね)便利なものには副作用があると思って、今、不便だと感じていることを解決しようとする際、すぐに便利(そう)なモノを買うのではなく、一手間かけて解決できないか、少しばかり「生きるための知恵」を絞ってみるようにすれば、この奇妙な世の中であっても、『真に生きる力』を取り戻すきっかけになるかもしれないと思います。

2 コメント:

Moyori さんのコメント...

通勤電車の中で新橋駅から流れ出す人の波を見た時「毎日毎日満員電車に揺られてこの人達は何をしに来ているのだろう?」とふと感じた事がありました。

都心では200mも歩けばコンビニがあり、24時間物が買える便利な世の中ですが、それを支えるために大変な思いをして通勤し、毎日遅くまで働いているんですよね。

自給自足の生活には戻れとは言えませんが、便利になったようで、実は自分の首を絞めているかもしれない現実に苦笑した瞬間でした。

Kazumoto さんのコメント...

コメントありがとうございます!
それスゴク良くわかります。こんな民族大移動を毎日やってまで、何がしたいんだろうと思うこともあります。

あとやたら急いでる人を見た時にも。信号無視して走ったところで20秒も変わらないのになぁって(笑)

自給自足、狩猟と採集生活にはもう戻れないでしょうけれど、働けば働くほど真綿で自分のクビを絞めているのかもしれないと考えるとちょっと怖いですね。