『菜根譚』に見る『減らす技術』の源流

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菜根譚』という書物をご存じでしょうか?中国明代末期、洪自誠(別名:洪応明、還初道人)が書いた随筆集です。前集222項、後集135項からなる書物なのですが、日本では禅僧の間で愛読され、今では漫画版まで出ているのでご存知の方も多いことと思われます。

特に後集2項の『不如省事(事を省くにしかず)』の部分がつとに有名で、政治家の椎名悦三郎はここから『省事』、つまり物事は些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが肝要。枝葉末節にこだわるあまり、大切な根本をおろそかにしないようにということを人生訓としたとのことで、今も『省事』を心に刻む政治家、経営者は多く、菜根譚の愛読者も多いと聞きます。野村克也氏も愛読していると聞いたことがあります。

私は多少、漢文を読む心得はあるので、たまに原文こちらでも原文が読めます)をつまみ読みしてみるのですが、ついさっき、後集131項がとても興味深い内容であることに気づきました。

後集131項
<原文>
人生減省一分、便超脱一分。如交遊減便免紛擾、言語減便寡愆尤、思慮減則精神不耗、聡明減則混沌可完。彼不求日減而求日増者、真桎梏此生哉。

<書き下し文>
人生は、一分を減省(げんせい)すれば、便(すなわ)ち一分を超脱(ちょうだつ)す。
如(も)し交遊を減ずれば便ち紛擾(ふんじょう)を免(まぬが)れ、
言語を減ずれば、便ち愆尤(けんゆう)寡(すくな)く、
思慮を減ずれば、便ち精神を耗(こう)せず、
聡明を減ずれば、則(すなわ)ち混沌(こんとん)完(まったく)す。
彼(か)の日に減ずるを求めずして、日に増(ま)すを求むるは、
真に此(こ)の生(せい)を桎梏(しつこく)するかな。

<Kazumoto流かなり適当訳>
人生は、何かを少し減らせば、少し何かを越えてゆける。もし交遊関係を減らせば揉め事から解放され、
言葉を減らせば過失を少なくすることができ、
思案を減らせば精神的な消耗をせずに済み、
“聡明=かしこさ”を減らせば混沌の無い本来の心を取り戻せる。日々、何事かを減らそうとせず、逆に増やすことを求めたら、
それは真に、自分で自分の人生を束縛するようなものだと言える。

<解釈本による説明>
一日余計に生きれば、一日余分な垢がたまるのが俗人の人生で来る者拒まず去る者追わずならまだしも、
人間関係なるものを拡大しようとしている老いた俗人は多弁ゆえに陰口を言われ、下手な考えゆえに馬鹿にされ、結局は疎まれて終わっている。言い換えれば、達人の生き方は、正に現役時代に付着した垢を落として、本来の心を発現させてゆくべきものだろう。翻って言えば、達人たる者の人生は「捨ててこそ完成される」と肝に銘じておこう。

日々減ずることを考え求める、これはLeo Babauta著『減らす技術 The Power of LESS』に繋がる考え方じゃないかと思ったのです。明代末期となると1640年頃(明王朝は1644年まで)でしょう。日本では関ヶ原の戦いがあった頃。そんな昔から増やすのではなくて、減らすことの重要性を論じる人がいて、現代でも未だ言われ続けているというのは、人間って根本的な所は進歩してないんだなぁと思うとともに、何とも皮肉な話だと思います。

菜根譚の解釈本が言う「俗人と達人」を現代風にアレンジするとこんな感じでしょうか?

「人脈作り」などと称してパーティーやセミナー、勉強会に出まくり、名刺を配りまくる人は、少しでも自分を良く見せようと多くを語ることになる。多くを語ったがために、いつかボロが出て、陰口を言われる羽目になる。付け焼刃の知識を披露しても、底が知れてバカにされ、結局自分で自分の首を絞めるだけの結果になる。
達人は、日々の生活で出会った人、得た知識、得た知恵を取捨選択し、その多くをバッサリと捨てることができる。重要な人とのみ付き合い、不要な人脈の拡大はしない。自分を良く見せる必要も無いので、多弁になる必要も無い。故に人から疎まれることもない。人生を選択し価値あることに集中することで、達人は達人になるのである。


さて、明日は何を減らしましょうか?

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