母屋に入り、最初の部屋は洋間です。その部屋は完全に白洲次郎の部屋です。英国人より英国人らしいとまで言わしめた男の美意識が見て取れます。ソファにふわっとかけられたセーターですらカッコイイ。本棚の上に無造作に重ねられた100年前の辞書、ワイングラスと無造作に広げられた当時のイギリスの雑誌。「こんな部屋で暮らしたい」本当にそう思わせるかっこよさです。何しろあの白洲次郎の部屋を再現するのですから、展示するスタッフの方も大変ご苦労されていると思います。
その洋間を抜けると、和室が二間。片方に着物や反物、もう片方に漆器やお盆などが展示してありました。私は着物に関しては完全に素人ですし、磁器に関しても大した知識はありませんが、順路である廊下から右に振り返って展示品が目に入った瞬間、息を飲み、背筋がゾクゾクとするばかりで、しばし動けなくなりました。素人でもその品々の美しさに圧倒されるのです。
江戸時代の漆器、誰もが知る名工の碗、螺鈿のお盆、古墳から出土したガラスで作られた装身具、花器、書、着物・・・etc・・・そのジャンルは多岐にわたり、造詣の深さとその目利きにただただ圧倒されます。
そして脳裏を過ぎったのは世阿弥の『花伝書』の一節でした。
物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし。美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
花同様、「物の美しさ」については、如何様にも話すことができます。このブログの愛着品紹介なんて良い例でしょう。使いやすい、見た目が美しい、こういう材料を使ってる、こんな職人さんの技術で作られている・・・etc、でも、今まで紹介してきた愛着品たちには心苦しいのですが、これは格が違いすぎます。本当に、真に、美しい物はその姿形で充足している、もしくは完結しているので、言葉が入りこむ余地がありません。故に沈黙を強いるのだと強く感じました。(私の所有している物で唯一対抗できそうなものは鈴木りょうこさん作の茶碗くらいです)
またその美しさは、所有し、使って初めて、真の美を纏うのだと感じました。展示してあるもののどれもが絶対一度は日常生活で使ったであろう跡を観ることができたからです。ほんの少しの傷、かすれ、カケ、それすらも美の構成要素の一部なのです。
美とは、物とは、決して単に鑑賞するものではなく、本来は、共に過ごし、共に語らうことができる親友のような関係であるべきなのかもしれません。そう考えると、価格の多寡に関わらず私の愛着品たちも、ちゃんと毎日実生活で使い、生活に彩りをもたらしてくれていますから、徐々に美しさを纏うようになってくれると嬉しいなぁと思わずにはいられませんでした。
帰り道、運転をしながら先ほどの衝撃と感動を思い返していると、ふと恩師のことを思い出しました。恩師の自宅の客間には南大路一画伯の書いた『春』の原画が飾られています。この絵も初めて見た時にハッと息を飲み、微動だに出来なかったことがあります。その時、恩師にこう言われたことを思い出したのです。
へぇ。これを見て、動けなくなるか。感じることができるんだね。もっと沢山のものを見ていると、次第に物がハッキリと「見える」ようになる。何十年後かな?まぁ楽しみにしていなさい。
未だ「見える」ようになっているとはとっても思えませんが、少なくともまだ「感じる」感性は有していたようです。
美しい物を感じ続けると見えてくるもの、もしかしたらそれは何かしらの「理」もしくは「筋」なのかもしれません。
最後は武相荘の主、白洲次郎の言葉で締めることにします。
プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことはない。
プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。
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