思いっきり個人的なことで何ですが、2008年7月14日は私の人生の中で「最悪」の日でした。
「サイアク〜」と特段何でもないことにも使ったりしますが、この日を境に「最悪」という言葉は私の中で軽々しく使える言葉ではなくなりました。
思わせぶりなことだけ書いて、何が起きたか言わないのは卑怯っぽいので、結論を言うと妹(26)と甥っ子(6ヶ月)が殺され、二人が発見された日なのです。夏場に1週間締め切ったアパートに居た姿は想像を絶するものがありました。おかげでASD(急性ストレス障害)にもなりましたが、必死に事後処理をしている間に鬱病から立ち直るきっかけを得たというのもまた事実です。
そんな「最悪」な1年前の自分の日記(のような殴り書き)を昨日、見ていてハタと気がついたことがあります。この最中、私が無我夢中ですがっていたことは普段気にもとめない詩集を読む、オペラやクラシック音楽を聴く、画集を見るなどいわゆる芸術作品に触れることだったようです。その中で赤いペンで何重にも囲ってある一篇の詩がありました。
============================
生活が君を欺いても、悲しんだり怒ったりしてはいけない。
悲しみの日を耐え忍べばきっと喜びの日がやってくる。
心は未来に生きるもの
今はいつも悲しいもの
やがてすべては束の間に過ぎて
過ぎ去ったものは懐かしくなる
============================
調べてみたらロシアの作家、アレクサンドル・プーシキンの一節のようです。ただプーシキンの作品は持っていないのでどこで触れたのかも良く分かりません。これはとても不思議です。それはさておき、この詩が当時の私の心に響いたことは間違いないようです。
芸術作品というと、高尚で理解しがたいイメージというか、何だか自分の生活とはかけ離れた感じがするのですが、ある種の極限状態で普段意識したこともないこれらを求めたというのは1年経って思い返すと何か意味のあることなのではないかと思ったワケです。
表現者が何かを伝えようとして取った手段が芸術だとするなら、作品に込められた信念、思想、感覚、感情、情念などに触れることは「救い」に転化されうるものなのかもしれません。単純に美しい、心地よいものに触れるのは気持ちいいことなだけかもしれませんが。
気分が落ち込んだとき、辛いことがあったとき、もう限界だと思った時、手に届くところにお気に入りの作家の著作や画家の画集などを常備しておくということは、マインドハックになるのかもしれないなと思います。
今、シンドイことに直面して、読むことが億劫だったとしても絵は見れるでしょう。
何も読みたくないし見たくもないという状態だったとしても音楽があります。
何もしたくないんだ!という状態でも呼吸はしてますから、気体の芸術たる香水も効果があるかもしれません。いずれにせよ5感の内の1感だけでも使えればOKでしょう。
学者でも何でもないので全く学術的根拠はありませんが、体験を経て気づいたことです。(たぶん)役に立つのではないかと思うのですがどうでしょうか??
1 コメント:
Kazumotoさん こんにちは
今日の記事を読んでびっくりしました。
大変な経験をされていたんですね。
うまく言葉が見つかりませんが、想像を絶する体験だったとお察しします。
よくぞ、うつ病からも立ち直られましたね。
芸術作品は、五感に訴えるものが多いだけに、心に届くような気がします。
それに、紡ぎ出された言葉も。
一日でも早く、心の傷を癒されることを心より祈っております。
コメントを投稿