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仕事術が瓦解する原因とその対策法について

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「自分がやりたい仕事をやりたい」けれど「忙しくてできない」という人がいます。確かに発狂しそうなくらい忙しい時というのはあります。その処方箋として多くの仕事術を扱った書籍では、「大切なことだけにフォーカス」し、「どうでも良い仕事を減らすように」と書いてあります。「できればとっくにやってるわ!ボケ!」と悪態のひとつもつきたくなるアドバイスです。つまりはアドバイスになっていないのです。

例えばクレームなんてその最たるものです。「自分は売るのが仕事、クレームはサポートチームの仕事」という体制が整った恵まれた職場は別として、一般的に営業職の人がクレームというミサイルを撃ち込まれた場合、その火消し仕事がいきなり最優先事項になってしまいます。従ってそれまで手がけていた仕事はペンディングにせざるを得なくなるわけです。私はこれが仕事術の本に寄せられる問い「急な横入りがあって」とか「自分の意志ではどうしようもないことが多くて」とか「結局仕事術は上手く回らない」の正体だと思っています。このあらゆる仕事術のワークフローをいとも容易く貫通してくる弾道ミサイルのような仕事は基本的に防ぎようがないものです。当たり前ですね。クレームを予期しながら納品する営業マンなんていないでしょう(笑)しかし日頃の準備如何で、この突然飛来する弾道ミサイル仕事に対抗することは可能だと私は思っています。

私は仕事とは超大まかに3つに大別できると考えています。

  1. マニュアルどおりやれば良い仕事
  2. マニュアル化することができる仕事
  3. しばらくマニュアル化できない仕事

の3つです。恐らく多くの人が言う「やりたい仕事」とは3のことだと思います。1のマニュアル通りやるのは退屈だし嫌だというのは多くの人に理解していただける部分だと思います。(ただし、その仕事をやってくれる人が当然必要なのは肝に銘じておきましょうね)
落とし穴は2番です。マニュアル化して誰かにパスすれば良いのに、「俺がいないとこの仕事は回らないんだ」と自己陶酔に陥りやすい仕事だと思うのです。確かに「俺がいないと」というのは気持ちが良いものです。何か偉くなったような気がしますし、周りの人が頼ってきてくれるのは自己顕示欲を満たしてくれますからね。多くの人はココでその「上手くやれる気分の良い仕事」を「やりたい仕事」と勘違いしてしまっているのではないかと思います。自分が気分が良いことに乗じて、いつまでもマニュアル化せず、他人にパスしないから、突然飛来する弾道ミサイルのような仕事にテンヤワンヤして、結局上手くやっていたその仕事も崩壊してしまう。または上手くやっていたと考えていた仕事術も破綻してしまうのではないかと思うのです。

私は、あらゆる仕事は「誰もができるマニュアルに仕上げる」ことが最終工程であり、そのマニュアルが正真正銘の成果物ではないかと思っています。マニュアル化するというのは実に高度な能力と技術が要求される仕事です。当然メンドクサイと思いがちな作業でもあります。しかしミサイルが飛んできていないセーフティーゾーンにいる時にこそ、せっせと今の自分の仕事のマニュアルを作ることをオススメします。地味にコツコツとマニュアルを作って自分の代理を皆ができる体勢が整って初めて、正面から弾道ミサイルを迎撃することもでき、マニュアル化できない新しい仕事にチャレンジすることもできる状態になれるのです。つまりあらゆる仕事術が正常に機能し続けるためには、先に先に他人にパスしておく努力をする必要があるのです。あまりにも当たり前のことすぎて多くの仕事術では取り扱っていないだけなのかもしれませんが、ちょっと不親切と言えるかもしれませんね。こんなにでかい落とし穴を放置しているのですから。

今自分が誇らしく思っている仕事が、実は2番の仕事ではないか?とGTDのワークフローをお使いでしたら週次レビューの際に自分に問いかけてみる必要があると思います。

Double Work≠Double Check

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当たり前の事ですが、いわゆる仕事術の本で紹介されているテクニックというのは「手抜き」を推奨しているわけではありません。しかし、こと仕事の効率化をいうものを考えた時、何でも無駄と思ったことをぶっちぎって、最短距離を走ることと同義と勘違いしてしまうことも多いと思います。
 
今週(5/18)営業本部長殿の至言をTwitterで呟きました。
 
二度手間とダブルチェックの違いを考えろ!

入社半年の同僚が勝手に手順をかっ飛ばしたことに対して一喝したときの台詞です。これはピンと来たので、反射的に呟いたのですが、この指摘は仕事の効率化というものを考える上でとても大事な視点だと思うのです。
  • 二度手間・・・一度ですむはずのことに、二度の手間をかけること。
  • ダブルチェック・・・二重に確認すること。

大辞林ではこのように載っています。かなり紙一重ですが、この二つの言葉は全く違うと思います。私は「二重に確認して正確を期すこと」とダブルチェックを定義しています。ね、違いが明白になるでしょう?

二度手間は明らかに一人でできることを、わざわざ二人以上でやっているわけですから、この手間は無くしても問題ないはずです。ただし、一人に負荷がかかるわけですから、その人選は慎重に行う方が良いと私は思います。

一方、ダブルチェックが機能していて、正確な仕事を一発で成し遂げる仕組みができあがっているのに、作業員2人以上分の手間と時間がもったいないとかっ飛ばしてしまったら、ミスが格段に増えて、仕事量・仕事時間がよりかかってしまったという本末転倒なことにもなりかねません。

まず私たちが引っかかった仕事上のボトルネックがあったとして、それは二度手間なのかダブルチェックなのかを考えるクセをつけた方が良いと思います。そしてその手間を省くとどうなるかを考えるようにしましょう。自分たちの手間は減るけど、質や正確性が犠牲になったり、質や正確性は以前と変わらないけど、手間だけは二倍かかっているなんて結果に辿り付くかもしれません。

いずれにせよ、二つの言葉の意味の違いを考えるコトには意味があると思われます。先般紹介したやたらと細かい上司の至言を思い出します。曰く
手抜きは、楽ができるどころか、仕事を増やすことになると肝に銘じておけ。

表面上無駄に見えるけれど、絶対に「かけるべき手間」というのも中にはあるものです。表向きだけを捉えて、そういった大事な手間を省いた結果、仕事を増やすようなことのないように、重々気をつける必要があると私は思います。

ITリテラシー低めな私がiPadを予約した理由

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予約の段階で既に行列を作る大人気製品iPadですが、ご多分に漏れず私も予約しました。既にアメリカで売っているものをゲットされた方々による、詳細なレポも沢山ありますが、IT業界に勤めているわけでもないし、プログラムとかそういうこともできないITリテラシー低めの私が、iPadを触った感想を書いておこうと思います。未だゲットするかどうかお悩みの方の参考になればコレ幸いです。

先日、都内某所にて@beck1240さんと一緒に@mehoriさんにiPadを触らせてもらいました。(興奮のレポはこちら)私の第一印象は「これは紙を凌駕する製品だ」というものでした。

単純にiPhoneをでっかくしたわけではないのです、恐らくAppleは一から設計し直したはずです。そして考え抜いた結果出来た製品は「デジタルとアナログという概念を取っ払う製品」に仕上がっていました。素人目線で見るとこれは「パソコン」の新しい形ではなくて、「A5サイズのシステム手帳」の新しい形なのではないかと思っています。

A5サイズのシステム手帳は私も長年使ってきましたが、実はとても便利な大きさです。A4用紙を一回折ればファイルできます。地図も資料も写真も大きいものを折りたためば入ります。メモを取る時にもA5サイズだと1枚にかなりの量が書き出せます。これら”紙”でできている当たり前のことを、漸くデジタルでも当たり前にこなせるようになった、初めての製品がiPadだと思うのです。

まずもって速い。それはiPhone3GSを遙かに凌駕したスピードです。手帳を開くのと同等かそれ以上のスピードです。そしてこの大きい画面だからこそ、iPad版「FastFinga」が出てくれば、ペンでノートにメモを取るのと同じ感覚で、指でiPadにメモを書き付けていくことができるでしょう。地図・写真は紙のものよりも見やすく且つ使い勝手は遙かに良い。手帳の要であるスケジュールもこの画面の大きさを生かした使いやすいアプリがこれからも沢山出てくるでしょう。要は”アナログ手帳”でリフィルを使って出来ていたことが、iPadでは同じように当たり前にこなせる上、さらに使いやすくなっているということが、最大のポイントだと思うわけです。

さらにiPadでは"紙”の手帳では絶対にできなかった、動画を見る、書籍を読む(本棚を持ち運べる!)、音声を聞く、ゲームをする、システム手帳には入りきらない量のメモを閲覧する、といったことも本当の意味で直感的にできます。

特にiBookの本の読みやすさは尋常ではありません。レファレンスとしての書籍以外は全て裁断して電子化しようと本気で思えます。何しろ本棚を重さ
僅か700gに全て入れて持ち運べるのですからこれは最早革命と言って良いと思います。

さらにこれは出来るかどうか良く分かりませんが、iPadでテレビが見られるようになれば、リビングにテレビを置くなんてことはしなくて済みます。アメリカのiTunesストアのように映画もレンタル?できればDVDメディアもDVDプレーヤーも不要です。ラジオは既に聴けるアプリがあります。もうリビングをTV等のAV製品に、ある種不当に占拠されることはなくなる可能性もあるのです。メディアに自分の身体を持って行くのではなく、メディアの方が手元に来るようになっていくかも知れません。

つまり、少々大げさかもしれませんが、人類が作り出した最強の媒体"紙”を凌駕する製品が遂に作り出されたと言えるかもしれないわけです。今まで、デジタルの媒体では、アナログな紙媒体でできることを100%同じようにはできてませんでした。しかしiPadは紙の優位性の殆どをカバーする製品です。そしてデジタルの魅力は当然、付加されています。今後この画期的な製品で更に新しい地平が見えてくることは確実だろうと私は感じています。そんな近未来にワクワクするようでしたらiPadは『買い』だと私は思います。

一体幾つの”力”が必要なんだろう?

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かなり前からなのですが、書店に行くたび、○○力という類の本があまりにも多すぎて気持ちが悪いと思っています。

知的生産力、読解力、集中力、速読力、情報収集力、情報整理力、裏読み力、勉強力、ノート力、メモ力、手帳力、企画力、文章力、手紙・メール力、雑談力、コミュニケーション力、人間関係力、交渉力、質問力、鈍感力、断る力、決定力、・・・etc

何でも「力」を付ければ良いってもんじゃね〜ぞ!と思いますし、「"力"を付ければ何でも売れるブーム」にしようと、出版界全体の談合でもあるんじゃないのかと邪推のひとつもしたくなります。何よりも"力"という字があるだけで、真夏の運動部の部室の臭いみたいな不快な暑苦しさを感じるのは私だけでしょうか?"生理的に"嫌なのかもしれません。男が使って良い言葉なのかどうかは知りませんが。言われた事がなくて良かったと思いますね。書いておいて何ですが。
おっと少々脱線しました。

『手帳力』なんてその最たるものではないでしょうか。手帳力って何でしょう?ダブルブッキングをしないようにスケジュール管理をしたり、アドレス帳に大切な顧客の連絡先を記しておいたり、やるべきことを忘れないように書き留める以上の"力"が手帳を使う上で何か必要でしょうか?

多分"力“をこれだけ広めた立役者は斉藤孝さんだと思いますが、斉藤さんの近著のタイトルが『大事なことは3つにまとめなさい!』であるということは何の冗談でしょう?斉藤先生、あれだけ大量の"○○力"を出版していながら、最後は3つにまとめろと!?是非、斉藤先生が残す3冊を知りたいものです。

それはさておき、仕事をする上で私の仕事に必要ない”力”も沢山あると思うのです。政治家に「裏読み力」は必要でしょうが、私には必要ありません。文筆業の人に「文章力」は必要でしょうが、私の仕事では名文を書く力が必要なわけではありません。インタビューアーに「質問力」は欠かせない力でしょうが、私の仕事で知恵比べのような質問をする必要は特にありません。

つまり、職業・職種が違えば必要な“力”も違ってしかるべきなのに、全ての○○力を万遍なく身につけていないと、もう仕事を続ける資格がないかのような煽り文句ばかりなのはオカシイと感じるわけです。マラソンランナーに遅筋だけでなく、速筋ももの凄い量がないと金メダルは取れないと言っているようなものとでも言いましょうか。そんな違和感です。
 

選択と集中という戦略が必要なように、”○○力”も自分の仕事に本当に必要な力は何か良く考え、選択し集中しないといけないのかもしれません。「知識はあるけど使えない人」若しくは「頭でっかちで動けない人」になってしまわないように、こういった”○○力”本との接し方はちょっと気をつける必要があるのではないかと思います。

(追記)
さて、ここで頭のフェイントに気づいていただけたでしょうか?そう、今求められているのは『選択力』なのです(笑)

会社という村社会

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一部のちょっとヤンチャな方々にご好評いただいて、私自身のストレス発散にもなっている、毒気たっぷりな不定期腹黒連載「反逆児の仕事術シリーズ」ですが、当然私の実体験を書いています。私はいくつかの会社を渡り歩き、様々な会社の内部に潜入してきましたが、日本の会社には気になることがあります。

それは「会社」と「村社会」の構造が酷似しているということです。

Wikipediaに載っている「村社会」の説明を見てみます。

村は本来、道切りなどにより外部と区別される空間で、村の成員は生業を行い生活に必要な資源を供給する環境を共有し、寄合を行い祭礼や年中行事を共同で行うことにより統一された意思のもと秩序維持を行っていた。村社会は相互互助的な性質を持つ一方で、内部には経済的階層や家柄による家格などが存在し、村の秩序維持のための青年組織などが存在した。特徴としては古くからの仕来りを遵守する傾向があり、それに異を唱えるものや遵守しない者に対しては本人や肉親、更にその者に関わったものまで異端者扱いし、差別を行なうことがある。これにより新たにその地域に移住してきた者や流行にとらわれやすい若者が反発し、古くから住んできた者とのトラブルが後を絶えない。

なるほど。さて、これをですね、こう弄ったらどうでしょう?

会社は本来、社名や建て屋などにより外部と区別される空間で、会社の成員は与えられた仕事を行い、人・物・金などの資源を供給する環境を共有し、組合を作り春闘や、花見や忘年会などの年中行事を行うことにより統一された意思のもと規律維持を行っていた。会社では相互互助的な性質を持つ一方で、内部では派閥や役職などが存在し、会社の秩序維持のための研修プログラムなどが存在した。特徴としては古くからの暗黙のルールや前例を遵守する傾向があり、それに異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人やその上司、更にその者に関わった者まで異端者扱いし、差別を行うことがある。これにより新たにその会社に中途採用者や流行にとらわれやすい若者が反発し、古くから勤めている者とのトラブルが後を絶えない。

どうでしょう?驚くくらい一致すると思いませんか?言葉遊びにしては良く日本の会社の姿を表していると思います。

こうした閉塞的な村の中で生活するのに欠かせないのは「協調性」「空気を読む」「長いものに巻かれまくる姿勢」です。秩序維持を第一に考えれば皆同じ方向を見て、同じ思考で、同じ事を、同じように感じる方が楽ですし、そう育てられるのですから当然と言えます。
 

ただし、特殊技能を有する人は除外されていたかもしれません。刀鍛冶や、医者などは、その人がどんなに変な人でも容認されたと思います。しかしこれらの人は決して村のヒエラルキーの頂点にはなれなかったでしょう。もしまかり間違って一般人が『個性を出したり』『秩序に反旗を翻したり』した場合は出る杭は打たれ、「村八分」という強烈な処罰が待っているわけです。

これらも、そのまま日本の会社に当てはまります。画一的というか「社員総平均化」とでも言いましょうか、突出した個性を持つ人や、突出した仕事を成し遂げる人、若しくは私みたいな単なるへそ曲りは非常に邪険に扱われるわけです。そしていくら一所懸命、声を上げてみても上には届かず、生かさず殺さず『生殺し』という処罰を受けることになり、次第に声を上げる力も無くなったところで、「ヨシヨシわかれば良いんだよ」と優しく受け入れられるというシステムです。無謀にも戦略戦術を持たず、ひたすら声を上げ続けた人は窓際や肩たたきというところに着陸するのが相場でしょう。

画一的な組織の全てが悪いとは言いません。完全なるヒエラルキーの元、一糸乱れぬ動きが要求される軍隊などでは、むしろ画一的で無ければ困ることでしょう。作戦を展開する際にいくら戦況が即時変化するとは言え、各人の判断でバラバラに攻めるなんてことは考えられません。(ただ、現在のアメリカの苦戦は、個別の意思を持つ大勢のゲリラたちに画一的な組織としての軍隊では対処できない様を露呈しているという見方もできそうですが)そういう意味では敵が明確で、管理が必要な場合は、管理の容易さにおいてこの仕組みは使い勝手がよさそうではあります。

また、こうした社会体質・風土の形成に私たちが加担してしまっているとも言えそうなのも問題です。いろいろ文句を言いつつも何だかんだでその実、村(会社)での生活に染まっていて、居心地良く感じている時はありませんか?もしくは一見安全に思える村を出る!と腹を括れる人はどれくらいいるでしょうか?腹を括れない理由は?村を出たら経済的にどうなるかわかりませんし、出た瞬間からどんな脅威が待ち受けているともわかりません。村にいたころはピンチの時には村人に助けてもらえたかもしれませんが、村を出た瞬間から援軍は望めません。どう検討しても、村を出るということはリスキーであることに変わりはないと思います。

何度か転職をした私はこのリスキーさを肌で分かっています。今の会社には「恩がある」ということを抜きにして、何故、会社に勤めているのかと問われれば、やはり「賃金を得ること」を理由のトップに挙げます。どんなに薄給であっても、食べるために働くという図式は如何ともし難いものがあります。かといって再び村を出て、フリーとしてサバイブしていくだけの自信も実力もあるとはちょっと思えないわけです。

では、「村の外に出る勇気はないけど、村がもっと風通しの良い場所になってくれれば良いなぁ」と思っている、私のような都合の良い軟弱者はどうしていけば良いのでしょうか?

ハッキリとした答えは私は持ち合わせていません。このままではヤバイということだけを朧気に感じるのみです。ただどうやら個人が会社に「雇われている」という認識は改める必要がありそうだとは感じます。人生の羅針盤を自分の元に取り戻す必要があるといったところでしょうか。
個として会社と伍していく為には最低限の土台として仕事が出来ることは当然ですが、「身だしなみに気をつける」とか「挨拶をする」とか「約束は守る」とか「味方同士で争わない」とか「味方同士で足を引っ張るような真似はしない」など、当たり前過ぎてついつい思考が「茹で蛙」の状態になってしまいがちなことを、意識的にレビューし、注意を払う習慣づけが、もしかしたら大きな変化へとつながる第一歩なのかもしれません。

シンプルライフと殺風景の境界線

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一昨日の名古屋遠征の際、ビジネスホテルに一泊しました。ホテルの部屋はまさにシンプルライフの王道といえる空間かもしれません。ベッド、ライティングデスクとチェア、TV、小さい冷蔵庫、ユニットバス、照明、鏡、カーテン、以上!という感じで、一切の無駄がありません。お金が沢山あったらどんな家を買う?という話しになると、いつも義母は「ホテル住まいをする」と答えます。理由は食事は作らなくて良いし、洗濯もお願いできるし、家事の一切をしなくて済むからだと言います。なるほど確かにホテルにずっと暮らすことができたらこれ以上身軽なライフスタイルもないのかもしれません。

少々話しは逸れますが、『THIS IS IT』のDVD特典映像の中で、公演を50回に増やすオファーをした時のエピソードが紹介されています。Michael Jacksonは2つの条件を出したそうです。ひとつは「ギネスに申請して欲しい」ということ、もうひとつは「家族と過ごせる家を確保して欲しい」ということです。この条件は私にとってはとても意外な条件に思えました。MJほどの人になれば、食事から洗濯まで身の回りのことは全て、その専門の人がやってくれるでしょうし、ホテルであれば最上階の超ゴージャスなお部屋でしょうし、当然プライバシーは守られ、セキュリティも最高レベル。寝具から調度品、アメニティに至るまで全て洗練された無駄のない空間に身を置くことができたはずです。しかしMJはホテル暮らしを嫌い、「家」を要求したというのは少々違和感を覚えずにはいられませんでした。

今回私が泊まった部屋は極々普通のシンプルな部屋でした。キチンと清掃が行き届いていて清潔でしたし、色合いもシックに纏められていて結構良い感じでした。しかし始めはどこか余所余所しく、何というか私を歓待してくれているようには思えず、どうにも落ち着けなかったのですが、部屋に荷物を置き、ジャケットを壁にかけたところで漸く部屋が私に馴染んだ印象を受けました。着慣れた愛用のジャケットを壁にかけて、それを見て初めてホッとできた自分を発見したのです。これは何だ?としばし考え込みました。

生活に必要な最低限のモノしか所有せず、シンプルに生きる。身軽で清潔で潔いとても素晴らしいライフスタイルだと私も思います。ヘンリー・D・ソローも「シンプル」に関しては、このような言葉を残しています。

 
シンプルに、シンプルに、生きよう。すべきことは百や千ではなく、二つか三つでいいのだ。


僕は確信している。もし人がすべて僕のようにシンプルに暮らせば、盗みや強盗なんて耳にしなくなるに違いない。そういった犯罪は、必要以上に所有する人が一方で、十分にものをもたない人がいる社会でのみ起こるのだ。

しかし、今回私が気づいたのは、必要最低限しかモノが無い生活では「心」は安らげないのではないかということでした。モノを沢山持っていることが=豊かであるとは私も全く思いませんが、どうやらモノを単に減らせば万事解決といくようなそれこそシンプルな問題でもなさそうです。でなければ極限にシンプルなホテルの空間で最初から存分に寛げなければオカシイでしょう?

私が思うに、必要最低限のモノしか所有しない生活とは「殺風景」と紙一重と言えそうです。そして殺風景の「殺」という字の相手は、私たちの心なのではないかと思います。故に、必要最低限+毎日愛でることができるだけの愛着品を持つこと。これが一般人にできる一番シンプルな生き方と言うことになるのではないかと思います。愛用品みたいなものがあるだけで、まるでそれがお守りのようにもなり、その場を自分の居場所だと特定してくれるような気がします。今回の私のジャケットがそうであったようにです。そんな生活必需品ではないけれど、大切にしているモノが全くなければ、心が寛げるだけの空間にはならないのかもしれません。どんなに楽しい旅から帰ってきても「やっぱり家が一番だ」というのは、家にあるモノたちが心をマッサージしてくれているのかもしれないなと思いました。

ちなみに・・・ソローはこんな言葉を残しています。が、私はどうやら前者のようです(^^;) たとえ前者であっても少しでも後者に近づけるよう研鑽していく道程こそがその人のライフスタイルであり、そのゴールのひとつがシンプルライフなのかもしれませんね。

粗野な人がシンプルに暮らすのは、無知と戯れているか、または怠惰によるものだ。しかし、物事を深く考える人がシンプルに生活するのは、そこで得られる知恵によるものである。

ちなみに・・・写真は「森の家」でソローが使っていたデスクのレプリカだそうです。あんなに多くの著作を残した人の机とはちょっと思えないくらい小さく、部屋もシンプルそのものです。これぞ知恵ある人の成せるシンプルライフなのでしょう。

昼の残酷さ、夜の優しさ。そして魅力探し。

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ちょっと独白を。どんな感想を持たれるでしょうか?

私は、中学2年の時から、夜中、家族が寝静まってから、終電で渋谷まで行き、始発で家に帰ってくるという生活を始めました。世はバブル全盛期。センター街もまだチーマーなる人もおらず、中学生が夜中に一人でぷらぷらしているのは非常に目立ちます。すると「何でこんな時間に中坊が!?」という大人たちが声をかけてきて、面白がって一緒に遊んでくれるようになりました。これが私と夜の街との接点の始まりです。

昼間は生徒会長を勤め、しらっと優等生を演じていましたが、学校で教わることに意味を見いだせずにいました。特にこの頃の話しは下ネタ祭りです。同級生があの子が可愛いだの、胸が大きいだの、下着が透けただのと、盛り上がって話しているのにもウンザリしていました。私自身は小学生の時に初体験を済ませていたから尚更です。普通の人であれば、思春期の性衝動や良く分からない怒りにも似た衝動をどうにか抑え込んだり、折り合いをつけたりするのだと思いますが、私は夜の街に繰り出すという行動に移しました。結果、本当に色んな人に遊んでもらい色んな世界を自由に出入りさせてもらいました。かなりレアな経験も沢山しました。当然普通の人が見てはいけない世界も沢山見ました。

昼間の肩書きは一流企業のお偉いさんという人には銀座の超一流クラブや芸者さんとの遊び方を教えてもらいましたし、クラブのママさん達にも可愛がってもらいました。浮浪者さんには都会のサバイバル術を(これは後年非常に役立ちました)、ヤクザ屋さんには特に可愛がってもらい、警察との癒着の構造や"しのぎ"のこと、拘置所の生活、ヤクザの哲学などを教わり、この日本でマジチャカを何回も撃たせてもらいました(笑)売れてない役者さん、売れてない自称芸術家さんには教科書には載っていない視点からの美術作品の見方、音楽の聴き方を学びました。
他にも、不法入国ながら懸命に働いて本国へ送金している外国の人、そういう外国の人を食い物にしているブローカー。ニューハーフの人、性転換手術を受けた人、風俗で働く人、個人で性欲処理業と称してヘンなビジネスしている人、サンドウィッチマンを長年やっている年配の人、麻薬中毒者、完璧な変態性欲者などなど、昼間の学校では決して教えてくれないリアルがそこにはあったように今思います。最後はまぁバカなミスをして警察のご用となり発覚するのですが(^^;)

先般、「対人恐怖症?克服訓練中」というエントリーをUPした際、実に多くの人から暖かいコメントやメールをいただきました。本当にありがとうございます。その中で@shinyaさんに「その人の素敵だなと思うところを1つ探してみて下さい」とアドバイスいただきましたが、おっしゃるとおりだと思います。この@shinyaさんのコメントを読んでいてハタと気づいたことがあったので、こんなエントリーを書いてみたわけです。

上記のような話しをすると聞き手は真っ二つに別れるのです。「何てダメで汚いやつだ」と切って捨てる人と「何て面白い経験をしているやつだ」と拾い上げてくれる人です。これはビジネスでも同じだと思います。ひとつの成果物を「ダメなモノ」として粗探しを始める人と、「面白いから、もっと面白くする方法を考えよう」と魅力探しを始める人です。

個人的に、どんな変態であろうと、どんなに堅気とはほど遠い生活をしている人でも、何かしら光る魅力があると思います。「変態の魅力って何だよ?」と言われると・・・うーん、私が会ってきた変態の人の言を借りると「インテリにしか変態はできない」というくらい、皆、知識豊富で美的センスに溢れた人が多かったですね。これは立派な魅力でしょう?

当時、一緒に遊んでくれた大人たちは口を揃えて「昼は残酷、夜は優しい」と言っていました。太陽は全てを見えるようにしてしまうから残酷、反面、夜は仮面を剥がすような真似はしない、みんな包み隠してくれて、自由に光ることができると。
全てが見えてしまえば、必然粗が目に付きます。どんな美人だって良く見たら皺の一本や二本あるものです。でも、欠点には目をつぶり、その人の、その仕事の光る部分は何処か探せるようにしたらもっと上手くいくことってあるのではないでしょうか?

「ここ直して」とか「あの人のココがダメだ」とか切って捨てるのは簡単ですが、それを言う前に、その仕事の、その人の魅力を見つけ出して、「ココをもっと良くしていこう」とか「あの人のココが魅力的だ」と魅力探しができるようになりたいものだと強く思いました。

さて、ドン引きされることを覚悟で書いたこのエントリー、何か拾い上げてもらえる面白いところはあったでしょうか?(あってくれることを祈ります(^^;))

その近道、獣道だったりしません?

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私が、新卒で入った会社で、最初に部署異動を経験したのは2年半経ったときでした。当然上司も変わったのですが、この人は徹底的に手順と細部にこだわる人でした。この細かさは尋常ではなく、その会社の中で「一緒に仕事をしたくない人ランキングベスト5」に常に名を連ねる、悪い意味で有名な人でもありました。例えば伝票にトナー1本と書くか、トナー1個と書くか、本と個の違いで怒られるのです。某社のは筒状だから本で良くて、某社のは筒状ではないから個だと。いやマジです。
今までの上司はどちらかというと放任主義で、責任は取るから自由にやれという人だったので、このギャップに随分悩んだものです。

あまりに細かく小うるさいので、一回飲みに誘い出し、膝をつき合わせて面と向かって文句を言った事があります。じっくり私の意見を聞いた後、その小うるさい上司が言った言葉はとても意外なものでした。

俺は今、お前には仕事の正しい手順を覚えてもらいたいんだ。お前は伝票ひとつ丁寧に書いていないだろう?その適当に書いたモノを次の人が受け取ったあとのことを考えていないだろう?モノと一緒に動く伝票をいい加減に書いていたことがミスに直結する場面だってある。正しい手順を知らないと、飛ばしてはいけない大事な手順を無駄だ、近道だと勘違いする危険性があるんだ。近道を探しスピードアップする事は、歳を取っても出来る。むしろ経験を重ねた年寄りだからできる技なんだろうと思う。お前くらいの時は、ウサギじゃなくてカメのように地道な歩みが必要だと、俺は思うんだ。

この時の私は営業で実績も作り、とにかく「売る」ことばかりに目を向け、事務作業を舐めていたところがありました。報告書や社内で回す伝票、小口精算書類の類は邪魔なものだと決めつけていましたので、これには反省させられました。以来、この人がいう「正しい手順」を身につけるべくとにかく丁寧に仕事をするようにし、ようやく売るばかりではなく、会社全体の人の動き、モノの流れ、伝票の流れ、お金の流れなどに目を向けることができるようになりました。このことは営業の最前線を退き、補給兵や伝達兵のような裏方仕事についた今、実に役にたっています。営業目線で裏方仕事が出来る人はあまり居ませんので、これは私のちょっと変わった武器になりつつあります。

私はまだ長時間働けるだけの馬力が回復してないので、とにかく定時にあがって、身体と頭を休める為に、近道を見つけ、効率化を図るようにしていますが、最近この上司の言葉を思い出し、週次レビューの際に必ずこう問いかけるようにしています。

「これ、省いたらどんな影響があるかな?」

大した影響はないように見えても、意外に省いたらヤバイ作業というのもあります。「近道みーっけ!」と突き進む前に、その道がどうなっているか、地図で調べる余裕が必要なのかもしれません。スピードアップは歳をとったからこそできるという言葉も、なかなか興味深いと今になって思います。経験から見つけ出された近道と、ひょんなことから見つけた近道では、安全度が違うのかもしれません。

とにかく早く!最短距離を!より効率的に!といったかけ声が大声で叫ばれていますが、効率化した先に何をするのか意識せず、無闇矢鱈に近道を探し全速力でばかり走っていると、その近道には何か罠が仕掛けられているかも知れません。勿論カット出来る作業、無駄な作業はあるでしょうが、一見無駄に思えるその作業がゴールまでのプロセスの何に関与しているのか、良く考える時間も必要ではないかと思います。近道だと思って進んだら、獣道に迷い込んでいたなんてことにならないよう、ちょっとスピードを落として、じっくりプロセスを見直すような週次レビューをたまにしてみてはいかがでしょうか?

歳相応になれない自分

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深希さん主宰のブログ『*ever blue*』の「年齢」というエントリーを読みました。「全く同感」と思ったので、感じたことを。
 
このエントリーを読み終えた時、真っ先に浮かんだのは父の背中でした。私は両親が23歳の時に生まれたのですが、34歳になった今、考えてみると、34歳の時点で父は、母と、11歳の私、5歳の妹、そして母のお腹には弟がいたことになります。 当時の父の背中を思い出すと、やはりとてつもなくでかかったし、超えられない壁でした。妹の葬儀の時数十年ぶりに会った父の背中は大分小さくなってしまっていましたが、じゃぁ、今の私が当時の父と同じように威厳のある大きな背中をしているかと考えれば、暗澹たる気持ちになります。私が悪戦苦闘している頑張りなど、高卒で上京し、家族を養い、日々仕事に明け暮れた父の頑張りには、とても遠く及ぶモノではありません。

社会に出たら、年齢なんて関係ないとは思っていますが、それは虚勢なのかもしれません。やはり同年齢の人が起業していたり、雑誌や書籍を出しているのを見ると、「嗚呼、何て俺ってちっちゃいんだろうなぁ・・・」と思います。

3〜4年ほど年上の『Lifehacking.jp』の@mehoriさんや、『ライフハック心理学』の@nokibaさんの背中を見ても、とても追いつける気がしません。ましてや、身近なお手本たる営業本部長の大きな背中に至っては遙か彼方の頂です。

そして、年下を見ても、『R-style』の@rashita2さんや、『Hacks for Creative Life!』の@beck1240さんの知性や感性、努力、発想力、行動力、どれを取っても完敗だなぁと思うことばかりです。

特に得意な分野やスキルがあるわけでもなく、広大な知識を持っているわけでも、深い洞察力や、鋭い文章力もあるわけでもないことは、ず〜んと落ち込みますが、それでも、今何とかかんとか生きているし、もう少し生きていたいし、生きている以上はまぁきっと私にもどこかしら伸び代があると信じて、今置かれているフィールドで悪戦苦闘・七転八倒するしかないのだろうなぁと思いました。

しかし・・・何でみんなスゴイんだろう?やっぱり私がサボっていたせいなんだろうなぁ。中学は2年生くらいの頃からサボってたし、高校は半ば教師公認でサボっていたし、大学でも勉強した記憶ないし、殆どの授業サボってたもんなぁ・・・。ヤクザ屋さんとのパイプを持つことの威力とか、歌舞伎町の裏とか、夜の山手通りの人間模様とか、ホストクラブの裏話とか、クラブのママさん達の苦労話とか、ホームレスの暮らしぶりとか、そんな知識しかないもんなぁ。どれも使えない知識ばっかりだ(笑)やっぱり全科目、もう一度、勉強しなおそうかなぁ(-_-)

必要なのは・・・「死ぬ権利」ではないか?

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NHKの「無縁社会」という番組を漸く見ました。以前放送された時は特殊清掃人の作業風景が妹の事件現場とダブりフラッシュバックとパニック障害の併発を食らったので、今日はかなり覚悟して、準備して見ました。見た結果、うん、やっぱり色々考えてしまいました。

無縁とは言え、字面通りに何処にもつながっていない人は極めて稀だと思います。ホームレスでもクチコミネットワークがありますから、本名は知らずともその人が居ることは知っている状況です。仮名を名乗っている人ほど身分証明書となるものを肌身離さず持っているものですし。

しかし、私は妹の事件を不動産屋さんと警察から連絡を受けるまで気づきませんでしたし、夢にも思いませんでした。最後に妹と会ったのは彼女が殺される3ヶ月前。最後に妹と話したのも多分、同じ日なはずです。要は3ヶ月電話等の連絡を取っていなかったわけです。結果、妹と甥っ子は夏場に1週間、密室の室内で居たので、「異臭」で隣人が気づいてくれましたが、冬場だったら、3ヶ月前に殺されていたとしても、3ヶ月間全く気づかないこともありえたわけです。実体験として、家族という繋がりが希薄化していることは確かだろうと思います。

どれくらい繋がりがあるか考えてみると、私には故郷はありませんので、故郷との繋がりはありません。地域社会との繋がりは、同じマンションにああいう人が居るという程度には数名に知ってもらっているくらいです。個人情報規制法とやらを気にして、マンション住民の名簿すら作れませんから、私たちの顔は知っていても名前まで知っている人は数える程度でしょう。会社との繋がりはまだありますね。現役で働いてますし。家族との繋がりは家内が居ることの他には、弟と繋がっています。家内の親族との繋がりもありますね。ネットにも繋がりは有していますね。

それでも・・・例は悪いですが、私が家内を殺して私も自殺したとして、いつ発見されるかと問われれば、結構怖いものがあります。金曜日の夜に実行すれば、翌週の月曜若しくは火曜には『会社の人』が来てくれる"かも"しれません。GW前に実行すれば当然休みの間は誰もわからないでしょうから、最大2週間程度気づかれないことも考えられます。現役で働いていてもです。弟や家内の親族と毎日連絡があるわけではありませんから、現時点で、私たち夫婦に取って一番強い繋がりは『会社の人』ということになりそうです。

そして、今、家内が何かで死亡したとして、その遺骨をどうすれば良いのか?私たちは自分たちの墓を持っているわけではありませんし、お墓ってスゴイ高価なものらしいですから、遺骨のまま自宅に持っているしかないのかもしれません。夫婦揃って死んだ場合、弟が処分の一切合切をするなんてことはまだ無理でしょうから、ホント弟に迷惑かけない方法を考えないとなぁと思います。

この問題自体は色んな観点から考察できると思います。ネットでザッと見た限り、多くは経済的な観点からの考察だったり、共同体だとかコミュニティだとかの問題だとかの切り口が多いようですね。解決法としてはそれこそ昔のような人の「縁」を再建する工夫が必要だとする人もいるようです。でもこの解決法は無理だろうと思います。『プライバシー』や『個人情報』の名の元に本名やら何やらを皆必死に隠して守っているわけですから、そりゃ人と繋がる機会は減る一方ですよ。昔のように人の家にズカズカ入ってくるようなご近所さんとの「縁」なんてもう再建できるわけないとおもいます。

そこで、極論で即物的で、浅薄な意見ですが、この問題を解決するには、私は「死の選択の自由を認める」ことが一番良いのではないかと思います。

会社に属すか属さないかは自由に選択可能。
家族との交流の密度は自由に選択可能。
結婚するかしないかも当然自由に選択可能。
地域社会に関わるか関わらないかも選択可能。
その他で知り合いを作っておくか否かも選択可能。
しかし、「死ぬ選択の自由」がないのは何故だ?と思うのです。

死ぬ選択の権利があれば、本人の意志で、本人の希望で「安楽死」を選択する自由があっても良いんじゃないかと思うんです。持ち物は自分で処分しておけますし、死んだ後、献体として欲しいのか、どこかの業者さんに火葬を依頼するのか、親族に依頼するのか、どこの墓に入れてもらうのか、もしくは散骨して欲しいのか、共同墓地か等のことを決め、必要経費を払い終え、諸手続を全て済ませておいた上で「○月○日xx病院で安楽死させてもらうから、後は打ち合わせ通りヨロシク」とした方がよっぽど良いのではないかと思うのです。

番組内で放送された人は皆「いつ死ぬかわからない不安」と戦っています。NPOと生前に契約して、遺品の処分等を頼むという人が紹介されていましたが、あれはあくまでも「後始末を頼む」ということであって、いつ死ぬかはわからないわけです。最悪、自分が死ぬより先にNPOが破綻することだってあり得ないことではないわけですから、何かヘンな契約だと感じました。そんなことをするくらいだったら、「いつ死ぬのか」を自分で決められれば、全ての見通しが立つわけだし、そういう選択肢があるとわかっていれば、この不安は解消できるのではないかと思うわけです。

若い人が希望したらどうするのか?という疑問もあるでしょうが、たとえば権利行使の対象年齢を60歳以上として、その年齢に達していない人はカウンセリングを受けて、1年~2年経過を観察し、それでも希望したら認めるとか、セイフティーネットを張っておけば良いと思います。カウンセラーが全力でサポートして、「それでも」というならちゃんと認めて、死の権利を行使させてあげるべきだと思いますし、それで良いじゃないかと思います。

不慮の事故や、脳梗塞とか心筋梗塞とか突発的な事態は別としても、自分の最期を自分で決められないのは不自然だと私は感じます。

我が家では、お互いに「脳死状態・重度の介護が必要な状態・目を背けたくなるような痛みに襲われている場合は、(家内の・私の)判断で安楽死させて良い」と効力はないでしょうが、そんな事態になった時、判断を誤らないように、契約書を交わしています。介護疲れ、老々介護等、何故そこまでして生かせておかねばならないのかと考えるからです。私も家内も痛いのは嫌ですし、色んな管を付けてまで生きていたいとは思っていません。お互いがお互いの負担になるようなら、遠慮無く死なせてくれて良いと私たちは決めています。

あの放送を見ていると、自分の死の後始末をしてもらうために、親族・結婚・会社・地域等と無理にでも繋がっておかないといけないかのように、私には写りました。でも人との縁や繋がりって、本来、そんな歪なものではないでしょう?だったら、繋がるも繋がらないも自由、いつ死ぬ、いつまで死なないのかも自由とした方が私には自然だと思うのです。

人生の幕引き、ファイナルカーテンコールの有り様は自分で決めたいし、闇雲にどんな姿でも生きていたいとは私は思いません。モノは何でもあるけど希望がないこの国で、希望が持てなくても生きていなければならないこと。「死の選択の権利」が認められていないことが、人生全般を覆っている暗雲なのではないかと思います。

雑感-スーパーニッチe-雑誌の可能性

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今日、家内の洋服を買いにデパートへ行っていました。これが…果てしなく長いんです。毎回毎回。

そこで今日に備えて、前々から「欲しいもののイメージとか、質感とかを、雑誌やネットでチェックしてその切り抜きを持って買い物に行こう」と提案していまして、家内も了承し、あれこれ研究に励んでいたのです。ですから、期待していたわけですよ。サクっと買い物を終えて、家に帰ってこれるだろうと。

しかし・・・デパートの端から端まで1フロアー2往復するのは基本。複数のデパートを何回か往復するのも同じ。要は今回もいつもと全く同じなのです_| ̄|○ ナンデ?ナンデ?と思って「事前調査はどうなってるの?」と聞いたところとても意外な答えが返ってきました。

家内曰く。「だ〜って、”雑誌は参考にならない”って確信しちゃったんだもん。最初はこの記事みたいなジャケットを探して、似たようなのを試着したけど似合わなかったでしょ?だから、私は確信したわけ。雑誌に載っている洋服は、モデルさんが着ているから素敵なの。私が着たら違うモノになっちゃうの。だから地道にローラー作戦で探すしかないの」

ウチの家内ですが・・・身長は152cmと小さく、横幅には矢口真里さんをもう少しふくよかにしたような体型なので、確かに雑誌のモデルさんとは誰が見ても間違いようの無いくらい、全く違います。そして、家内のような「身長の低い人向けの雑誌は無いのだ」と言うのです。

Googleで色々検索しても、知りたい情報である「家内自身が着たらどうなるのか、どう見えるのか」というのはわからなかったのだそうです。

妙に納得してしまったので、諦めて家内の地道なローラー作戦につき合いテクテクテクテク歩きながら個人レベルで作る、e-Bookの可能性に思いを馳せていました。

例えばウチの家内に色んな洋服を着せて写真を取り、クビから上は無い状態の写真がダーッと並んでいる雑誌を作る。読者は自分のクビから上の写真を撮って、クビ無し写真雑誌に、自分の顔を重ねていくことで、同じ身長152cmの自分が着たらこんな感じになるというイメージが掴めるニッチな雑誌が作れるんじゃないか。とか、ウエストサイズ別、ヒップサイズ別なんて切り口で、流行のスカートを着たらどういうシルエットになるかとか、スーパーニッチな"e-雑誌"を個人レベルで作れたら、そういう雑誌を欲しいという人はいるんじゃないかな?と思ったりしました。

男性でも同じような情報を必要としているかもしれませんね。身長別、ウエスト別「ユニクロ+無印良品で勝負服をコーディネート」とか、「ラペル幅やゴージラインの違い」等を実際自分の顔を合わせて、どういう印象になるか確かめられるものなどを作ったら意外にウケるかもしれません(^^;)

12,000歩以上歩き、徐々にしかし確実に増えていく荷物を黙々と持ち続けながら、ブログではちょっと難しいけれど、雑誌には出来ていること。そんなことを個人レベルでちょっとデザインして体裁整えるだけで作れて、iPadで見られるような世界が来たら、普通の雑誌ではカバーしきれない、スーパーニッチだけど、「それ待ってた!」という日常に密接した情報っていっぱいあるかもしれないなぁと思いつつ、でも洋服はコーディネートアプリみたいのがあれば良いのかなぁ等、最後の方は朦朧とした意識で考えていました。

取り急ぎ、どなたか152cmの女性向けの洋服雑誌を作って下さい。ホント疲れた・・・。

コミュニケーションの「過剰」とその「質」について

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このところ、大分気持ちの浮き沈みの波が安定してきていて、普通に仕事をこなした後も、消耗しきってしまうということも減ってきました。そうなると不思議なもので少し欲が出てきます。私の目下の欲は「円滑に必要なだけのコミュニケーションを取れるようになること」です。従って、書店でもその手のジャンルの本を手に取り、日常のあらゆることを、その視点で見るようになっているのですが、その過程で、何だか違和感を覚えました。

私が感じる違和感は「現代の日本人は饒舌に過ぎ、不要なコミュニケーションに翻弄されているのではないか」という事です。そしてインターネットと携帯電話の普及が、饒舌さを加速させ、不要かもしれないコミュニケーションを増幅させているように感じてしまうのです。

同じマンションに住むお母さんネットワークを通じて聞いた話しですと、今時の小学生や中学生は、毎日何十、何百通もメールを打つそうで、それも即時返信が最早当たり前であり、マナーになってしまっているそうです。食事中もケータイは手放さず、電源を切ることなんてありえないことらしいです。さらにMixiやプロフ(ってのがあるんですか?)では読み逃げ厳禁だそうで、「足あと返し」だとか「コメント返し」をしなければ瞬時にイジメのターゲットになってしまうのだそうです。

さらに、愚弟の話によれば、今時の恋人の間で交わされるメールの量は尋常ではないらしく、まるでお互いがお互いを24時間体勢で監視し、万が一にも連絡がつかないと、それはそれは大変な揉め事に発展するというカップルも多いのだそうです。(愚弟には彼女が居そうにもないので、当事者になったことはなさそうですが)

普通のビジネスパーソンを考えても、仕事で百通前後のメールを送受信し、何十という電話に対応し、上司や部下、同僚との会話はしなければならないし、顧客や協力会社との面談・商談はあるし、加えて、セミナーや勉強会にも行っている人もいるわけですから、それはそれは膨大な数の言葉のやり取りを毎日行っているわけです。

もう、コミュニケーションの『量』は十分。お腹いっぱい。これ以上食べたら吐いちゃうよと言いたいところです。しかも今の言葉のやり取りはファストフードのような言葉ばかりじゃないでしょうか?ジャンクフードならぬ、ジャンクコミュニケーションとでも言いたくなるような。

ちょっと今日交わした言葉のやり取りの『質』に目を向けてみてください。今日話したものの中で、ハッとする言葉はありましたか?琴線に触れる言葉はありましたか?目から鱗の言葉はありましたか?逆に相手に気づきを与えるような言葉を投げかけましたか?あなただからこそ言える言葉を発しましたか?・・・意外にないと思うのです。何と言うか、じっくり手間暇かけて作られた手作り料理のような『上質』なコミュニケーションが少ないのではないかと思うのです。

とは言え、残念ながら、私は『質』を上げる秘策を持ち合わせているわけではありません。ただ会話には、「情報の伝達」という機能だけではなく、「関心」という「心理的資源」の交換としての機能があるのではないかと思います。よって相手にちゃんと関心を持って接すること、相手の話を関心を持って聴くこと。この2つを心がけてみようと思っています。量を減らすことは本当に難しいことですが、メールは重要なもの以外返信しないとか、会議を短くするとか、無駄話はしないし乗らないとか、商談内容を長さではなく密度で考え直してみるとか、地道なことをやるしかなさそうですね。

ちなみに、ヘンリー・D・ソローは著書『森の生活』の中でこんな言葉を残しています。

私たちは、わざわざ寄り集まって暮らし、邪魔し合い、ぶつかり合い、躓き合います。私の考えでは、私たちは社交のために互いに尊敬できなくなっています。社交を少なくすれば、大切なことを伝え合う、心をこめたコミュニケーションができるでしょう。


ほんの一瞬でも、お互いの立場から世界を見ることができれば奇跡が起こるだろう。

武道の奥義「読み」で、仕事力を底上げする

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小学校3年の始めまで剣道を習っていました。第二次大戦を戦い、生き抜いたお爺ちゃんが先生だったのですが、この人がおっかない人で、稽古帰りはいつも半べそだった記憶があります。入門直後、先生がおっしゃったのは「剣術とは、人を殺せる道具の使い方を学ぶことだ」 と、今考えると「小学生に言うか!?」ということを言われたのを覚えています。

だから竹刀で稽古していても、面を食らえば「今脳みそ切れたぞ。お前」と言われ、小手を食らえば「手首から先が無くなった」といわれ、胴を食らえば、「あはは、身体が真っ二つだ」等と言われました。子供心に竹刀ではなくて、真剣だったら・・・と思わずにはいられず、必死に稽古していました。

剣術に限らず、おそらくあらゆる武術に通じるであろう奥義の一つに「読み」というものがあります。突きや蹴りの威力が凄いとか、内剄が凄いとかももちろん重要ですが、「読み」ができる達人と相対したらそれらは意味をなしません。相手の攻撃を発揮できないように先回りし、更に相手が思いもよらない技を使い、いとも簡単にねじ伏せてしまうのです。

以前TV番組で、合気道の達人が、「その場の状況に応じて臨機応変・千変万化に、技や動作は元より、自分自身を変化させること」が極意だと言っているのを聞いたことがあります。ちなみに私は高校の体育の授業で柔道をやるはめになり、弱っちいですが、一応黒帯を持っています。オリンピック代表の座を争った経歴を持つ、柔道の先生に聞いたことがあるのですが、「読み」と「想像力」はちょっと違うそうです。「読み」は場の空気の流れや気の流れと言った、大局を読めるかどうかだそうで、「こう動くはずだ」という当てずっぽうに近い想像力とは、違うのだそうです。

私は病気のせいもあって、人より長時間労働することは現状できませんし、他人とコミュニケーションを取るのもまだ苦手です。やりたくても残念ながら今は人並みにできないことがまだまだあります。でも、今の仕事場では営業部からもマーケティング部からも製造現場からもヘルプを求められたり、上層部からも意見を求められたりする程度には会社の役に立てています。これは私なりの「読み」の成果じゃないか?と最近思っています。

とはいえ別段難しいことはな~んにもしてません。誰かが電話している内容は聞こえる範囲で、聞いているようにし、日報も全員のものを全てちゃんと読んでいるので、「この件で時間を取られているのなら、別件はバックアップが必要そうだ」とか、「こういう動きになった以上、この製品の下準備は早めに進めておいたほうが良さそうだ」といった程度の「読み」をしているに過ぎません。

しかし、普通の人よりできないことが多いという圧倒的不利な状況下でも、普通の人の先回りして、きちんとした準備をしておくという「読み」を磨き、それを使えれば、病気に限らず厄介事を抱えている人が、普通の人と同等若しくはそれ以上に仕事をする有効な手段の一つになるのではないかと思います。

ちょっと考えてみると、人を読む。世相を読む。情勢を読む。時代を読む。世界を読む。景気を読む・・・と、なぜか大きいうねりを推し量ることを「読む」というのは、もしかしたら武道の「読み」に端を発しているのかもしれません。つまり、身近な相手、職場の雰囲気、 仕事の段取り、商談のクロージングポイントなどを「読み」、先回りして抑えてしまえば、その仕事の主導権を握れるチャンスが増し、互角に勝負できると思うのですがいかがでしょう?

この案件で問題になりそうなのはどの辺だろう?とか、今日のあの人の気分は良さそうか悪そうか?とか、そんな簡単な練習を毎日ちょっとづつ重ねていくだけでビジネスの「読み」は鍛えられると私は思います。

これが科学的に有効な手段か否かは分かりませんが、少なくとも私の実感としては、注意を払うべきポイントを先読みできれば、仕事力の底上げに役立つと思います。


蛇足:他方、読み誤った場合の例としては、現在の政治の混乱っぷりが良い例でしょう。“読み誤り”が重なっているように思えます。とっとと辞任すれば良いのにね。色んな政治家さん。退く時期を逸すると惨めなモノだと思いますがねぇ。
本来の政治は滅私奉公が基本のはずです。なのに、滅するはずの私心が顔を覗かせると、どんな大義名分(今で言えばマニフェスト?)を掲げても嘘臭くなるものです。国の未来という大局を「読む」必要がある重要な職務なのに、そういう自覚が乏しいのかもしれません ね。

雑感ー「良い子」を目指すと生きることに消耗してしまう

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昨日、愚弟が4月に入社する会社に提出する書類にサインして欲しいとやってきました。弟と私は12歳離れていますので、小さい頃から私が父親代わりで、彼の人生の岐路の殆どに立ち会ってきただけに、いよいよ独り立ちかと思うと、ちょいと感傷的な気分になりました。まだまだ子どもというか、遊んでる学生にしか見えませんので、ものすごく心配ではありますが(笑)

小さい頃、ああだった、こうだったと話していたら、弟の方から「そう言えばお彼岸だね」と言い、話しは必然と妹とのコトになりました。そして弟がとても私の心を揺さぶる言葉を残していきました。曰く

姉ちゃんは、小さい頃からバカだとか色々いじめられてたし、母さんからもしょっちゅう怒られていたし、兄ちゃんも怒ってばかりだったし、俺もバカにしてた。でもさ、俺ら、姉ちゃんがどういう子だったら良かったんだろうね?いつもさ、姉ちゃん、周りにいっぱい気を遣ってたでしょ?人の目をすげー気にしてたっつーか。思ったんだけどね、姉ちゃんは、何とかみんなに「良い子」だって言ってもらいたくて、姉ちゃんなりに頑張っていたんだと思うんだよ。でもさ、周りに気を遣うのって、周りの要望通りに自分を変えるってことでしょ?それってすごいエネルギー要るじゃん?ムリしているワケでしょ?だから、きっと姉ちゃんは、どこかでエネルギーが無くなっちゃったんじゃないかなぁ?でね、最後の時も「抵抗の跡は無かった」って警察の人が言っていたでしょ?きっとね、旦那の「一緒に死んでくれ」っていう願いを叶える為に最後のエネルギーを使っちゃったんじゃないかって最近思うんだよね。

衝撃的な言葉でした。もちろん妹のことは想像でしかありませんが、私には腑に落ちる言葉でした。確かに一生懸命、不器用ながらも「良い子」になろうとしていたのだろうと思われる記憶がいくつも出てきたからです。と同時に、これは、今の人が「疲れてしまう原因」なんじゃないかとも思いました。ちょっと過去を振り返ってみると、先生に褒められた時は「先生の要望や期待に沿った」ときでした。大人になってからも、上司から褒められたことは「上司の期待に応えられた」ときでした。いつからか、何かの基軸が「周囲の自分に対する期待を叶えること」になってしまっていて、期待を叶えるという無理をしているが故に、大げさに言えば生きることに消耗してしまうのではないかと思ったのです。

バブルに頃は良かったんでしょう。「売り込みに行かなくてもモノが売れた」と言われるような時代だったのですから、上司の期待に応えることも比較的容易だったのではないかと思います。しかし今は違います。必死に仕事をしても即成果に結びつくことは少ないでしょう。もちろん今の頑張りが、未来と繋がって花を咲かせる可能性はありますが、少なくとも「今すぐ成果を求める」上司や会社の期待に応えることは至難の業です。それでも基軸が「周囲の自分に対する期待を叶えること」になってしまっているので、無理に無理を重ねて、精神的に参ってしまうのではないでしょうか?。

「良い子」と呼ばれる為に、大人の目を気にして努力した子ども時代。
「良い生徒」と呼ばれる為に、先生の目を気にして努力した学生時代。
「良い部下」と呼ばれる為に、上司の目を気にして努力している社会人。
「良い上司」と呼ばれる為に、部下と経営陣の目を気にして努力している管理職。
「良い経営者」と呼ばれる為に、株主の目を気にして努力している経営者。

「金持ちになりたい」という人は、周囲の羨望を集めたいだけでは?
「有名になりたい」という人も、周囲の羨望を集めたいだけでは?

仕事の基本は「お客様を喜ばせること」だと私は思っていますから、お客様の要望を叶えるということは当然です。従って、仕事論的なことを言っているわけではありません。
自分を無理に欺いて、人に迎合する処世術を、皆、体得してしまっているような気がします。しかしこの処世術は何かオカシイと感じます。上手く言えないのですが・・・。かといって、自分中心に「ああしたい、こうしたい」と自分を主張し、我が出すことも、度を超すと結局オカシナことになりそうです。

もし昔に戻れるなら、妹に何と言えば何をしてあげたら、運命を変えられたんだろうね?と弟とあれこれ話しましたが、結局、結論は出ず仕舞いでした。ただ、知的障害というハンデを背負って居ながら、両親の、兄弟の、そして周囲の人の期待を叶えられるよう気を遣い、気配を伺い、注意深く生きるしかなかった妹は、生きることに消耗してしまったのは間違いなさそうだというのが弟と共通した認識でした。
この弟の言葉は私の中ではまだ全く消化できていない言葉ですが、何か重要なことを孕んでいる言葉だと思えてなりません。

ルールが変わったんじゃない、競技が変わったんだ。

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毎日更新記録を更新し続けている、@shimoyamaさん主宰のブログ「When you were young」ですが、今日もまたとても興味深いモチベーションをテーマにした記事をアップされておられました。読み進める内にちょっと思うところがあったので、触発されて記事にします(^^)/

@shimoyamaさんがおっしゃるとおり、現代は熾烈な競争社会という側面を厳然と持っています。何を争っているかと言えば単刀直入に「金」でしょう。昔、学校で、もしくは家庭でこうは教わりませんでしたか?
 

みんなと同じように、一生懸命勉強して、良い大学に入って、大きい会社に入って、努力してお金持ちになれば幸せに暮らせる

もはやこれは全て破綻していることは全国民、百も承知でしょうが、どうも「みんなと一緒」「一生懸命」「お金持ち」というのが髄まで刷り込まれてしまっているのではないかと思います。

しかし「みんなと一緒」ではダメらしい。「単に一生懸命」でもダメっぽい。「お金持ち」がゴールではないみたいだ。とみんなわかっていても、刷り込みから脱出できないので、未だにモチベーションは「金」ということになっているのではないでしょうか。

ではなぜ、昔教わった「成功の道標」が使えなくなってしまったのか?良くルールが変わったと言われますが、私はルールではなく、「競技そのもの」が変わったのだと思います。何から何に変わったのか?ズバリ「野球」から「サッカー」に変わったのだと思います。

「野球」の時のルールはこうです。特にゲームに時間制限はありません。役割はほぼ固定。ピッチャーがキャッチャーをやったり、ショートがライトを守ったりはありません。打者は打者です。監督の指示通り動けばOKです。重視されるのはみんなと上手くやっていく協調性。「管理野球」というのが象徴的な言葉でしょう。

会社で例えれば、上司が働きぶりを管理します。時間制限なく残業した方が好印象を与えられます。みんな残業しているところ「お先に」とはとても言えません。上司の言うことは絶対です。打者は営業部。守備は総務部や経理部といった部署。打者だったら、ホームラン打ったり、コンスタントにヒットを打ち続けていれば生活は安泰。守備も堅実にポジションを守りきれば出世できます。会社に属してみんなと一緒にできれば良かったわけです。

しかし私が考えるに、今は「サッカー」なのだと思います。時間制限があります。大まかな監督の指示はあるでしょうが、基本的にはピッチに立っているメンバーが状況に合わせて、臨機応変な対応をせねばなりません。キーパー以外のポジションはかなり流動的です。FWがディフェンスに回ったり、ディフェンスが上がって点を取るなんてしょっちゅうです。攻守の切り替えは目まぐるしく変わり続けます。

「野球」の頃のルールであった、「上司の指示が絶対」という基準は崩壊。現場の一人一人が考え、適宜対応せねばなりません。時間制限があるので、無制限に残業というのもできません。常にゲーム全体=会社全体のことを一人一人が考えていないといけないので、営業だけできればOKとか、経理だけできればOKというのは通用しません。求められるのは、一人で多様な役割ができる「オールラウンダー」もしくは「ファンタジスタ」です。協調性より「自主性」や「独自性」が求められているように思うのです。
(「野球」より「サッカー」の方が競技人口が圧倒的に多いことも、グローバル化という現代社会に適した例えなのではないかと思います)

そしてもうひとつ。@shimoyamaさんの記事では、Harvard Business Reviewの記事を引き合いに出されていましたが、これは「宗教観」の違いもあるのではないかと私は思います。Google日本法人名誉会長でいらっしゃる村上憲郎氏の『村上式シンプル仕事術』にはこうあります。
 

彼ら(注:キリスト教信者)の価値観では「背が高い」とか「学歴が高い」「収入が多い」ということは ー評価基準ではないとは言いませんがー 第一義的な価値ではない。(中略)本当の価値の基準は「神様と直面したときにどうなるのか、どうするのか」にあるのです。

つまりは神の前に歩み出た時"progress"(前進・進展・上達)している状態でいたいという思いがあるから、モチベーションに影響する要素としてProgressが上がってくるのではないかと思うのです。他方、日本人は神をキリスト教のようには捉えていない人が大多数だと思います。しかも高度成長期に「収入が上がる」=「豊かになった」という考え方がすっかり定着してしまったので、バブルがはじけるまで「金こそ絶対の基準」だったのだと思います。そして不幸なことにその基準を信じる世代から教育を受けてしまった今現役で働き盛りの世代が、この呪縛から逃れることは容易なことではないでしょう。

今すぐ会社を辞めて徒手空拳で世間の荒波を乗り切れる力を有している人なんて極少数でしょうし、それなりの「技術」「経験」を会社で得てきたとしても、会社という後ろ盾が無くなった途端、途方に暮れる人が多いことはニュースでも耳にします。ですから、別に全員が全員フリーランスになろう!みんな起業しようぜ!と言っているわけではありません。会社組織の中でも部署を横断できる、会社全体を見渡せる能力を身につける努力をし、組織の中で凛とした独自性を発揮し続けていれば、十分対応できているということになるのではないかと思います。いずれにせよ、競技自体が変わってしまっているわけですから、孤立することを怖がらずに「拝金」の呪縛から逃れる必要が有るのだろうと思います。


とは言え・・・私は「お金降ってこないかなぁ」とか毎日のように思っていますが(^^;)

思考断食のススメ

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人間の人間たる所以は「考える能力」にあるという人がいます。いわゆるパスカルの言うところの「人間は考える葦である」ってヤツですね。確かに人間だけが考える能力を有していたが故に、他の動物を絶滅させたり、環境問題を引き起こしたり、果ては宇宙にまでゴミを出しちゃって迷惑かけているわけです。考える力も考えものだと思います。

それはさておき、最近は特に「情報」の入手が容易ですし、隙間時間も何かしらの情報と接しています。電車に乗ってても、目は何とはなしに、中吊り広告を追っています。
当然、情報に触れた際には最低でも「それは注意を向ける必要が有るか否か」と脳は考えるでしょうから、今の私たちの脳は常に考えている状態で、休み時間というものは無いのかもしれません。
睡眠時が唯一休んでいる状態なのかもしれませんが、私は睡眠というのは脳のデフラグだと思っていまして、起きている間に入手した情報を最適化しているんだろう、つまりせっせと断片化した情報を並べ替えているのだろうと思っています。この正確性は兎も角、少なくとも夢を見たりするわけですから、どうも休んでいるわけではないと言えそうです。

情報の遮断をすすめる書籍もありますが、現代社会において情報を一切遮断することなど至難の業でしょう。でも周囲の人と話していると、全てを投げ出してとにかくボーッとしたい。何も考えない静かな時間が欲しいという人も結構多くいます。こういう意見を聞くと「さもありなん」と私は思います。例えば、ニュースを見ていて毎回思うのですが、よくもまぁこれだけ酷いニュース、碌でも無いニュースばかり探してくるものだと感心するのは私だけでしょうか?
政治のニュースは金と政治の汚さや、責任問題の追求のヤジを聞かされ、社会に関するニュースでは誰が殺された。どこで火事があったと凄惨な現場を聞かされ、経済に関するニュースでは金・金・金とあらゆるマネーの情報を聞かされ、芸能では、芸能人の誰それが逮捕された。もしくは付き合っただの別れただの…etc

こんなど〜でも良い情報を常に見聞きさせられ、都度「注意を向ける必要が有るか否か」と考え、もし有るようであれば「その事柄についてさらに考える」必要があるんですから、脳だってたまったものではないでしょう。無駄な情報ばかり摂取し続けているわけですから、私たちの脳は「メタボ脳」・「肥満脳」状態と言えるのかもしれません。ボーッとしたくなるのはきっと脳が「もう処理能力の限界!」と言っている証拠なのかもしれませんね。

とは言え、ボーッとすると言っても、考えないということを完全に実行するとなると、これはこれで非常に難しいことです。完全な無というのは悟りを開いた人か、あの世に旅だった人以外には無理でしょう。そこで、脳が「常に判断をしていなければならない状態」を回避すれば良いのだとすれば、「沈思黙考」してみるという手段が使えるのではないかと思います。一つのことだけをじーっと考えてみるのです。

私の例ではキャンプで焚火をいじっている時、火の動きだけを考えて、ずーっと火を見続けていられます。この時、不思議と心は落ち着いていて、一種の瞑想状態のような感覚になります。日常生活でやる場合、まず確保したいのはリラックスできる静かな個室ですので、設備の良さを売りにしている漫画喫茶を利用します。安いですしね(笑)耳栓して、好きなアロマオイルを数滴垂らしたアイマスクをつけて、ひとつのことだけじーっと考える時間を取ります。(注意:タイマーだけは手に持っておきましょう。下手すると寝ちゃいますから)こうやって日々の思考をあえて断ち切ってみると、プチ断食をした後のような、清々しい気持ちよさが感じられると思います。

特により早く、より正確に目的を達成するために利用する手段を追求しているうちに、いつの間にかその手段を目的と勘違いしてしまったり、当初の目的や理念からどんどん逸れて行ってしまったりしがちです。長期スパンの仕事を抱えている時、単発仕事をマシンガンのように撃ち続けられている時などは意識的にこうした時間を何としてでも捻出して、「無駄な脂肪=無駄な情報や有害な情報」を摂取して、疲れきっている私たち本来の「考える力」を取り戻す為に、時々「思考断食」を実践してみると、メタボでお疲れモードの脳もリフレッシュできると思います。


ちなみに…写真は私のキャンプ時の写真です。見苦しい写真でゴメンナサイm(_ _)m

Kazumoto流?豊かな余暇の過ごし方

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本日@shimoyamaさん主宰の大人気ブログ「When you were young」で『余暇の過ごし方と人生の満足度』という記事がありました。非常に興味深いテーマでしたので、私なりに考えてみたことをつらつらと書いてみたいと思います。

余暇の過ごし方・・・ちょっと、私が思い浮かんだものを書き出してみましょう。


  • キャンプに出かけて自然に触れる(私の趣味ですねww)
  • 山や海へ行き遊ぶ(事前に遊び方を考えておこう!)
  • 美術館や博物館へ行く(芸術に触れることは心を潤します)
  • 外でするスポーツをする(テニスとかサッカーとか)
  • 室内でできるスポーツをする(卓球とか燃えるよね)
  • デパートの物産展に行く(地元のことを教えてもらえるよ)
  • 伝統芸能を観に行く(歌舞伎や能を見たことありますか?)
  • 古地図を1枚もって住んでいる街を散策(ブラタモリ?)
  • 地元の銭湯を何軒か巡る(番台に座らせてもらえたらラッキー)
  • スーパー銭湯のサウナで我慢比べ(意外に盛り上がる!)
  • 木を拾ってきて、箸やスプーンをナイフ一本で作ってみる(楽しいです)
  • 似顔絵を描き合ってみる(大笑い間違いなし!)
  • 古書街を子どもと巡る(古い本が面白いって思ってもらえるように!)
  • 地球儀を回して指で止めたところをGoogleEarthで見てみる(手軽に見聞を広められます)
  • 作ったことのない料理を作ってみる(料理は絶好の段取りの勉強になります)
  • 陶芸や書道、ガラス工芸などの体験会に申し込む(結構ありますよ!)
  • 手作りのモノを扱う雑貨屋さんを巡ってみる(多分お母さんが一番楽しい)
  • お父さんお母さんの子供のころの遊びをやってみる(缶蹴りとか?)
  • できればお父さんの職場へ連れて行ってあげる(子供は絶対見たいはず!)
  • でんじろう先生の実験をやってみる(理科楽しいよ!)
  • 地元の川や裏山に生息する生き物を見つけて図鑑で調べる(簡易ダッシュ村)
  • 地元の農家で一日手伝わせてもらう(但し繁忙期に注意)
  • お父さんお母さんの家系図を一緒に作る(これも面白いと思う)
  • 工場見学に行く(畳職人さんとか地元にいるでしょ?)
  • 消防署を見学させてもらう(結構見せてもらえます)
  • 竹とんぼやコマを子どもと一緒に作る(お父さん面目躍如!)
  • 靴磨き王選手権(但しお母さんのをやってあげるのがポイント!)
  • 動物と遊ぶ(友だちは飼っていたりしないかな?)
  • お父さんが読んでいる本を読み聞かせする(疑問いっぱいだと思うんだ)
  • 懸賞葉書を書きまくってみる(当たったらラッキー!!)
  • ギネスブックで抜ける記録を探してみる(笑)
  • 雑巾を作る(余ったタオルで縫ってみよう!)
  • 作った雑巾で床磨き選手権開催!(廊下長くないだろうけどww)
  • 家族で楽器を演奏する(みんなで一曲マスターできたら素敵!)

まだまだ出てきますが、これくらいで(笑)ね?意外に楽しそうなことが中にはありませんか??しかもそんなにお金のかからないことですよ。どれもこれも。私たちに子どもは居ませんが、居たらこんなことしたいなぁということも盛り込んでます。雨の日でもできるものもあります。雨なら雨で傘をささす、ずぶ濡れになりながら、子どもと全力ダッシュでスーパーまで行ってみる。で、Tシャツを絞って一番水が少なかった人の勝ち!なんてことも十分楽しいイベントです。コレ弟と良くやりました(笑)

子どもの視点で考えると、私が子どもの時の思い出で最高に楽しかったものは、小学校5年生くらいの時の土曜日の夜、忘れ物をしたと言って、車で父の職場まで行ったときのことです。今もある某超高層ビルの上層階のオフィスで、父の席を見た時は驚いたものです。モニターが6台くらいあって、数字がいっぱい並んでいて、電話が何でか5台もあって、土曜日なのに忙しそうに働いている人が居ました。父親の昼間の姿を垣間見られたことは冒険でしたし、嬉しくて嬉しくて「スゲースゲー!」と連発していました。土日にオフィスに入ってもOKであれば、是非職場に連れて行って上げるのは、子どもにとっては本当に嬉しいことだと思います。

また、自分自身の心のメンテナンスという観点で余暇を考えると、ポイントは「ひと手間かける」ことだと思います。芸術に触れるのも良いでしょう。家の掃除や植木の手入れを丁寧にやってみるのも良いでしょう。体験教室なんてちょっとググればいっぱいあります。昔ギターをやったけど挫折したという人は今からいかがですか?昔ピアノを習っていた人、ちょっとキーボード買ってきてまた始めてみてはいかがでしょう?昔やっていた習い事をもう一度始めるなんて面白いと思います。茶道や華道、書道などを始めてみるのも良いでしょう。特にグローバルな仕事をされている方は、もう一度日本を知ることになるかもしれません。海に行ったら地引き網なんて手伝わせてもらえたら面白いですね。いつのもの公園だって、草笛吹いてのんびり散歩するなんて粋だと思いませんか?子ども達に教えてくれって囲まれますけどね(笑)

ホラ、楽しいことは山のようにありますよ。日頃やれ効率良くだとか、やれ段取り良くだって手間を省くことばかりやらざるを得ないんですもの。あえて「ひと手間かけ」てバランス取りましょうよ。効率とか能率とかスピードだとか段取りだとか全部忘れて、目の前の楽しいことだけ、無駄なことかもしれないけど、それだけを存分に楽しみましょうよ。私はこんなことが『バランスの取れた豊かな余暇の過ごし方』だと思います。

雑誌Pen「キリスト教とは何か」を読んで浮かんだ詩

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雑誌Penの「キリスト教とは何か。」という特集を読んでいたら、ふっとこの詩が脳裏を過ぎりました。

何故、同じ動物でありながら「人」は「人」になってしまったんでしょうね?

ウォルト・ホイットマン著『草の葉』第32節より

「獣たち」
わたしは身を動物に変え、
あのいつも穏やかで独立独歩の動物たちと
ともに生きられればと思う、
わたしは足をとめ
長い間いつまでも
動物たちを見つめる、
動物たちは自分たちのあるがままの現在に
ぐちをこぼさず
また骨を折ってあくせくもしない。
動物たちは
暗やみの中で目をあいたまま横になって
なにかを罪に泣くこともない、
動物たちは
神にたいする義務について討論して
わたしをうんざりさせもしない、
一匹として満足せぬはなく
一匹として蓄財に熱中するあまり
狂乱状態になるものもいない、
一匹として他にひざまずかず、
また数万年を生きながらえてきた種族の
流儀に盲従するものもいない、
そしてこの地上のどこにも
一匹として社会的地位のあるものはなく、
また不幸をかこつものもないのだ。

憧れの食卓

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サマーウォーズのDVDを一人で観ていて、子供の頃からず〜っと憧れていたモノと対峙せざるを得ず、色々考えさせられました。
この映画は非常に面白いですし、仮想空間<OZ>と現実世界のリンクっぷりも、いつの日かあんな世界になるのかなぁなんぞとワクワクさせられるものです。大好きなアニメTop10に確実に入る作品です。

恐らくこの映画で泣けるシーンは「栄おばあちゃんの死」のシーン、「栄おばちゃんの遺言書」のシーン、「花札バトルでの世界中からの応援」のシーンなどではないかと思うのですが、私はまったく違うシーンで、映像を一時停止しました。それは、

「陣内家全員で食卓を囲むシーン」です。

サマーウォーズの主人公(?)小磯健二と同様、私もああいう風に大勢で食卓を囲むという豊かさを知らないのです。

私の父方の家族は陣内家のような大家族でした。しかし、全員が揃ったのは叔父が交通事故で亡くなった時だけと記憶しています。全員で食卓を囲んだ記憶はありません。父親の兄弟の正確な人数も知りませんし、名前も知りません。

母方の家族は祖父・祖母・叔母・母の4人ですが、父や叔父、従兄弟を交えて全員で食卓を囲んだことはありません。祖父・祖母の兄弟の人数、名前も私は知りません。

自宅では、平日父が帰宅するのは決まって深夜2時か3時頃でしたし、休日は接待などで居なかったので、全員で食卓を囲んだ記憶が殆どありません。外食の記憶はありますが、家で家族で食卓を囲むという思い出がないのです。

以前の記事で、「私の成功の定義は「円満な自分の家庭を持つこと」でした。」と書きました。確かに家内というパートナーを得て、自分の家庭を手にすることはできました。しかし、それでも、私の「家族」はもう集まることはできません。妹がこの世にいない今、もう「家族の食卓」を再現することはできない。そして実現不可能なそれこそが私が子供の頃から憧れ続けていたものなのだと思わざるを得ませんでした。

栄おばあちゃんの遺言書にはこうあります。

家族同士、手を離さぬように。人生に負けないように。もし辛いときや苦しいときがあっても、いつもと変わらず家族みんなそろってご飯を食べること。一番いけないのはお腹が空いていることと、一人で居ることだから。

私の家族は全員が全員、手を離してしまいました。つなぎ直したくても、もうつなぎ直すことはできなくなりました。

今の私にできることは、家内と2人だけの小さな食卓であっても、できるだけ一緒に食べるようにすること。(愛犬も一緒に食べるから、2人+2匹の食卓かな?)そして絶対に家内の手を離さないようにすることでしょう。憧れ続けた食卓はもう不可能ですが、せめてこの「私たちの小さな食卓」の豊かさを大事にしたいと改めて思いました。

1993年のグラミー賞、レジェンド・アワード受賞の際、Michel Jacksonはこんな言葉を残しています。

(注釈:今日の世界の様々な問題)これらは、私たちが子供から楽しい時代を奪った結果です。

何気ない「家族の食卓」それが楽しい子供時代の象徴なのかもしれません。お子さんがいらっしゃる方々には是非、幸福で豊かな家族の食卓の時間をお子さんに日々プレゼントし続けて欲しいと思います。家族の食卓の記憶がないというのは、大人になって振り返った時、とても寂しいものですから。

ユビキタス・キャプチャーの肝は記述法にあり!

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昨日、「Evernote日本語解説書二冊同時発売イベント『象が踏んでも忘れない』」に参加してきました。イベントの模様は、USTREAMでダダ漏れ動画がコチラでご覧いただけます。いや、スゴイ世の中ですね!

色々な方が、様々なメディアで昨日のことを記事にされておりますので、詳細は割愛します。しかし今回、痛感したのは・・・英語は話せないと駄目だ・・・ってこと!聞き取れるんですけど、話せないと伝えられないですからねぇ・・・まずは英文法MindMap早く完成させねば!(予定を大幅に超過中・・・orz)

さて、今回のイベントで個人的に大収穫がありました!@mehoriさん、@nokibaさん、@shigotanoさんのお三方のプレゼンの中でピン!ときた言葉があったのです。それは、@nokibaさんの「記憶とは、覚えて、覚えておいて、思い出すこと」という言葉です。Ustの動画だと、56分あたりですね。

2009年10月16日の私のUCメモに「『iPhone情報整理術』のP132の図、この図以外にも記憶に関わる大切な要素がある感じがする。その要素について記述できれば、UCの意味が増す気がする」と書いてあります。それが何なのかず~っと考え続けていたのですが、それが何かとわかったこと、そしてUCを続ける記述法のコツが漸く掴めました。

まず私が探していた要素。それは「香り」でした。

香りも思い出すキッカケを与えてくれる重要な要素だということです。
例えば、サルバドール ダリのラグーナという香水があります。鼻の形をした青いビンに入った香水です。私はこの香りを嗅ぐと、高校時代に付き合っていた女性の姿が浮かびます。他にも、ネスカフェのインスタントコーヒーの香りで祖父を思い出したり、セブンスターの香りで新卒時代に指導してくれた先輩を思い出したり・・・といった具合です。

実体験として、先日、街角ですれ違った女性の残り香がラグーナと似た香りだったのですが、たったそれだけで、私は瞬時に当時付き合っていた女性の姿を思い出しました。この経験を@nokibaさんの言葉と照らし合わせると、私はラグーナの香りを「覚えて、覚えておいている」ここまではOKです。

けれども、先日はたまたま香りに出会えましたが、どこにどうやって香りの記憶を残せば良いのでしょうか?香りを言語化することは非常に難しいことです。しかも残念ながらEVERNOTEに香りはUPできませんし、「香りを保存再生できるメディア」は今のところありません。しかし、よく考えた結果、これはメモの取り方を工夫すれば解決できるのではないか。そしてその書き方こそがUCの肝なのではないかと思いました。

「香り」を思い出せるようなメモの取り方の例として、歌の歌詞が思いつきました。例えば松田聖子さんの「赤いスイートピー」では「♪タバコの匂いのシャツに そっと寄りそうから」と香りを印象的に使っています。

「タバコの匂いのシャツ」この一文で、相手がどんな男性で、どんな匂いでどんなシャツだったのか、聴いた人は、各々具体的なイメージを思い浮かべることができるでしょう?

つまり、UCの記述法の肝は「書き付けた言葉で具体的な映像を想起できる」ように書くことで、そのような記述を残しておければ、その場の情景、香り、質感等も思い出すことができると思ったわけです。

我が家で言えば、そうですね・・・愛犬の肉球の匂いww。私は「干草の匂い」と言い、家内は「お日様の匂い」と言います。言葉は違えど、そう遠くない将来、愛犬が旅立ってしまった後でも、その匂いを例えた言葉が残っていれば、その匂い、その温もり、肉球のぷにぷに具合を思い出すことができるでしょう。(実際に干し草の匂いを嗅いでも、きっと思い出せるでしょう)
さらに、その言葉を愛犬の肉球の写真に添えて、ついでに吠え声の音声も一緒にEVERNOTEに入れておけば、EVERNOTEは本当の意味で「思い出保管装置」・「人生の足跡」・「第2の脳」・「外部記憶装置」と成長するのではないかと思います。

歌の歌詞は色々な映像を私たちに想起させますからメモの取り方の良いお手本です。ちょっと数曲ご自分の好きな曲の歌詞に耳を傾け、思い出した映像をメモしてみてください。どういう風に書けば「思い出せるメモ」になるかのコツみたいなものがつかめると思いますよ!

蛇足:中島みゆきさんの「うらみ・ます」という曲は、学生時代に中島みゆきさんが付き合っていた男性との交際が終わった直後に書かれた曲で、実体験なのだそうです。この曲を聴くたびに震え上がっている男性が1名いるわけですねぇ・・・メモの残し方も良し悪しですね(笑)