「先送り」防止対策『考える前に動け』

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本日の佐々木正悟さん主宰ライフハック心理学で、「先送り」に関する心理についての考察がありました。
私は「先送り」をする人の心理が今ひとつ良くわからないのです。私にとって、先送りとは『気持ち悪いこと』なので、とにかく着手しないと気が済まないというのは以前のエントリーでも書きました。なんで短期の仕事も長期の仕事も先送りせず、滞りなく回せているのかを良く考えてみたのですが、気づかぬ内にそれなりの予防策を講じていることがわかったので"Share and Enjoy"の精神に則り、つれづれに書いておきます。

先送りは面倒くささから発生するようだ
私の肩書きは「情報システム担当」というものですが、その実、総務や庶務的な仕事も多く、やれ「蛍光灯が切れた」だの、「テプラのテープが無くなった」だの、「製品のデータを測定してくれ」だの、といった所謂雑務がドカドカ舞い込みます。蛍光灯が切れたなら交換すれば良いだけだし、テプラのテープがないなら買ってくれば良い。測定だったら測定器を立ち上げて測定すれば良いだけです。が、なぜか皆これらのことを「めんどくさがって」ぐずぐずいつまでもやらない。だから「先送り」という事態が生じるようです。しかし、私はこれらの仕事がやらなければならないことであれば、それに対する心理的障壁が低いので、あれこれ考える前に「今すぐにやる」ということが習慣化してしまっています。従って基本的に「めんどくさい」から後回しということは殆どありません。まぁ良い意味で尻軽なのですね
(体調が悪いときは、どうしても行動が起こせない時があるので「殆ど」としておきます(^^;))

予防策1.予備の空白時間を意図的に設けておく。
どう頑張っても、その日中には終わらない仕事も厳然としてあります。そこで、今週中というスパンで考えた時に、私は必ず半日分のバッファを事前に確保するようにしています。
私は一日を9時~12時の午前中の部と、13時~17:30の午後の部の大きく2つに分けて仕事を組み立てているのですが、木曜日の午後の部は「バッファ」とし、アポイントも何も入れない空白の時間帯としています。そしてその週の内に投げられて、打ち返しきれていない仕事はこのバッファ時間でたとえポテンヒットであろうとも打ち返すようにしています。
なぜ金曜日ではないのかというと、何故か先送りの癖のある人は、金曜日になって仕事の依頼をしてくる頻度が高いからです。従って、金曜日は翌週の仕事の「予約」が入る日であると考えて、その前に片付けるようにしているわけです。

予防策2.長期タスクは週単位でPDCAサイクルを回す
長期に渡るプロジェクトの管理というのが問題が起こりやすい仕事に変化しがちです。仕事である以上、やらねばならないことでしかないはずです。しかし目先の仕事に追われて大事なプロジェクトにも関わらず、後回しになるケースが殆どでしょう。で、最終的にはデッドラインギリギリに何とか片付けたは良いけれど、後で火消しに追われるという悲惨な有様になるのがお決まりのパターンです。自分一人で完結するタスクであれば良いのですが、やっかいなのは長期スパンのタスクは他者が介在してくることです。そして長期を見渡せる視野のある人は案外少ないというのも問題です。

長期スパンのタスクをこなす肝はどれだけ細かく切り分けられるかだと仕事術系の本には載っています。これに習って、私はココでも週単位で予防線を張っています。具体的に言うと、月曜日の午後13:00~14:00は長期プロジェクトの進捗チェックに奔走するようにしているのです。皆を集めて会議なんて悠長なことはしません。自分が聞きに行くのが一番速いからです。そこで集めた宿題が今週の私のタスクになります。これを1ヶ月4回やれば他者が絡んだ、今月中が〆切の仕事はほぼ問題なく終わります。また、1年は53週ですから、これを53回繰り返して進めていけば、年間で成し遂げねばならないプロジェクトもほぼ終わります。
要はPDCA(Plan/Do/Chack/Act)サイクルの内、PとCを毎週月曜日に確認し、週の残りの日はDとAをやれば良いと言うことになり、PDCAサイクルがちゃんと機能するようにしているわけです。
私はPDCAサイクルを回す肝はスピードと仕組みだと思っています。Planを作ったら作りっぱなしでDoに行かない、DoをしてもCheckをしない、CheckがないからActができない。3つも難所があるわけです。しかし、少なくとも週1回、Planの再確認、Checkの依頼と確認をしていくだけで、自然と回るようになると思っています。人を動かすにはどういうわけか、自分が動くのを見せた方が皆、協力的になるようなので、自然と身体が動くように毎週同じ時間帯に動くようにしているわけです。

まとめというか雑感(^^;)
先送りが癖になっているような人をみていると、「先送りする、もっともらしい理由をあれこれ考えるくらいなら、今すぐ動いた方が効率よくないか?」と思ってしまいます。もちろん仕事ですから、今、非常に切羽詰まった状態で、すぐにアクションを起こせないケースもあるとは思うのですが、その切羽詰まった仕事が終わったら「すぐ」着手すればよいのに、何故かやらない。これが私からすればとても不思議で解せないのです。
お客様の立場になって考えれると良いと思うんですよ。「別にいつでもいいけど頼むね」と言われた仕事を、その日か、明日に出したら「大したヤツだ」と思われるでしょう。でも2ヶ月も先に出したら呆れられるでしょ?やっぱりスピードは顧客満足に直結するファクターの一つでしょうし、仕事の誠実度を測る物差しにもなると思うのです。もちろん「正確さ」も必要なファクターだとは思いますが。
大江健三郎氏の小説のタイトル『見るまえに跳べ』に習えば、『考えるまえに動け』とでもなるでしょうか。重箱の隅を突くようなディテールにこだわって、動けなくなっているくらいなら、80%程度でエイヤっと提出しちゃった方がグズグズしているより、よっぽど良い方向に仕事が転がるチャンスが増えると私は思います。

刃物を直す砥石、人の心も治す砥石

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活に密着した道具の中のひとつに「包丁」があります。それこそ100均で売っているものから、有名ブランドまでこれまた沢山の種類がありますが、我が家では、結婚記念としていただいた老舗の包丁メーカー「木屋」の包丁を愛用しています。刃物のメンテナンスは私の個人的な趣味でもあるのですが、刃研ぎのプロ、「刃研ぎ堂」さんという職人さんの存在をついこの間知りました。流浪の刃研ぎ職人と言えば良いのか、あちこちに出向かれて、小さな露店を広げ、その場で研ぐという独特のスタイルで仕事をしておられます。私が研ぐのはあくまで趣味。プロの研ぎ方とはどういうものか、興味津々でして、たまたま今日、近所に来られることを知ったので、ワクワクしながら、お願いしてきました。

やっぱりね、プロの仕事は違います。本当に小さな露店ながら、砥石等の道具は使いやすいように整理されていますし、研ぐ手つきもとても綺麗。当然刃物の蘊蓄も楽しくて、スパっと切れるものだけが良いのではなく、少しバリを残した方がトマトの表面で滑ることなく切れるようになる等、目から鱗の話しを聞け、しかもその場で実演していただくことができました。
小1時間くらいお話していて、特に印象的だったのは「グラインダーや回転砥石とかの機械でやるとその場限りは良いかもしれないけど、道具としては役立たずになっちゃう。昔ながらの砥石で研いであげるのが一番良いやり方。不便なのが一番だよ。便利になるってのはその分どこかに歪みが生まれるんだよ」という言葉でした。

確かに現代社会の方が便利であることは議論の余地はないでしょう。でもその便利はもう「過剰な便利」になっているのかもしれません。材木も人の手で鉋をかけたものと、機械でかけたものとでは、後々生じる反りなどの問題発生率が全く違うのだそうです。何でも機械任せで本当に良いのかと深く考えさせられました。

物とのつき合い方はとても難しいことです。最近、自分プロジェクトとして、自分の所有する物を全て写真に撮るということをやっているせいもあって、つくづくそう思います。でも、撮影していくうちに、物は大きく二つに分けられることに気づきました。ひとつは「手入れや修理をしていけば一生使える物」と「便利で新しいものを取り入れる必要がある物」です。前者は修理すること、手入れをすることが前提に作られ、後者はいわゆる使い捨て、買い替えることを前提に作られています。

どちらにも一長一短あるとは思うのです。手入れの時間を惜しむ程多忙であれば、後者を選んだ方が良いという物とのつき合い方もあるでしょうし、一つの物を慈しんで使う方が幸せだというつき合い方もあるでしょう。ちなみに、私は断然前者の立場の人間です。

しかし、良く考えてみれば、本当はどんなものでも手入れは必要ですし、使っていれば壊れる日もやってきます。それが当たり前です。これは人間関係に置き換えてみると良く分かると思うんですが、些細な行き違いがあったり、仲違いがあったりしても、相手が大事な人だったら亀裂が入った関係を、壊れた関係を直すのが当然だと思うのです。そういう意味で別に高価なものばかりではなく、自分が好きな物は手入れをしてあげる方が自然なのではないかと思います。

刃研ぎ堂さんの元には、刃こぼれした包丁、刃が焼き付けを起こしてしまった包丁、曲がってしまった包丁などなど、傷んだ包丁が担ぎ込まれます。持ってくる人はその刃物に何らかしらの愛着あるのだと思います。傷んでしまった刃物を直すと同時に、傷んだ刃物を見て傷んだ人の心をも治してくれるのが刃研ぎ堂さんの砥石なのだと、つくづく感じました。

さて、我が家の包丁ですが、9年ぶりにプロの手によりメンテナンスされ、いただいた当時の切れ味を取り戻しました!家内はもちろん大喜びですが、気のせいでしょうか、何だか包丁も嬉しそうに見えるから不思議なものです(^^)

刃研ぎ堂さんの研ぎっぷりを動画で撮らせていただきました!是非ご覧あれ!

爺ちゃんの"ゴム紐"仕事術

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亡くなった祖父の生活について祖母は「ゴム紐のようだった」と言います。

どういう意味かというと、朝5時ジャストに起きて、7時ジャストに出勤し、19時30分近辺に帰ってきて、23時ジャストに就寝するというのが平日のスケジュールだったそうで、忘年会や送別会などのとき以外、この時間が狂ったことは無かったそうです。会社帰りにちょっと一杯というのもほとんどゼロ。休日には一切、外食もしない人だったそうです。(私も祖父とは山で食べた以外、外食の記憶がありません)
ゴムはビヨーンと伸ばしても、必ず戻ってきます。それと同じ様に会社に行ったら、必ず19時30分頃に帰ってくるので「ゴム紐のようだ」と例えたのです。なかなか洒落た例えだと思います。


山が好きだった祖父は、休日は結構勝手気ままに出かけていたそうですが、旅先であっても5時起床は変わらず、寝るのは23時だったと祖父の山仲間が言っていたそうです。確かに大晦日でも変わらず23時前になると「寝よう」と言われてTVが見れず悔しい思いをした記憶があります(^^;)

また、祖父の性格を象徴する出来事として、結婚すると報告をしに家内と訪れた時、祖父の書斎にあるビデオテープやアルバムの背表紙「全てに」テプラテープがピシーと貼られている様に、家内は何よりも驚いたと言います。また旅行先で民芸品を集めるのが趣味だったようなのですが、各地のこけしなどもどこのお店でいつ購入したものなのか、小さなプレートが前に飾ってありました。コーヒーを淹れることくらいしか家事はしない人だったのですが、自分の空間は、常に整理整頓していて、何事もキッチリしていないと嫌な人であったようです。

なんでこんな生活をしていたんだろう?と考えてみると、7時ジャストに出勤したら地理的に8時には会社に到着することになります。始業は9時からだったそうですから、「前業」をしていたのでしょう。
また、19時30分に帰り着かねばならないというのはきっと、一日のデッドラインを設けることに他ならないでしょうから、所謂〆切効果で、仕事の処理速度を底上げしていたと考えられそうです。
さらに、帰ってきたら寝るまでの時間を大事にし、ストレスレベルを下げていたのかもしれません。


仕事にデッドラインを設けるとは吉越浩一郎氏などが声高におっしゃっていることですが、祖父は少なくとも最低27年以上前からやっていたことになります。高度成長期の日本で今でも十分先頭を走れるであろう「脳の活動が活発な朝に仕事をして、残業はしない。整理整頓を徹底し、デッドライン仕事術を実践し、自分の時間もたっぷり確保する」仕事術を淡々と行い続けるとは!「やるな!爺ちゃん!」と思います(^^)/


そんな祖父の血を引いているからか否か、私の普段の生活も起床から就寝までが概ね規則正しいものになっています。祖父同様、忘年会や送別会、若しくはセミナーなどに参加しない限り、毎日ほぼ同じ時間の使い方です。いつも刺激的な出来事に出会う生き方も楽しいでしょうが、メンタルコントロールという視点で考えると、できるだけ毎日同じリズムで静かに暮らすことの方が、心に余計な波を立てず、平穏で居られるというメリットがあるのではないかと思います。

「最近疲れているな」とか「最近なんかイライラすることが多いな」とか「ちょっと落ち込み気味だ」とか言う人は、1週間ほど、"超"規則正しい生活をしてみてはいかがでしょう?一切、寄り道もせず、情報のインプットも最小限に抑え、とにかくメトロノームのような正確なリズムで生活をしてみると、さざ波が立っていたメンタルは静かな湖面のような様相に変わるかもしれませんよ。

@mehoriさん&@nokibaさんの予言的中!2010年はe-Book元年だ!

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2009年12月5に、AppleStore銀座で行われた、「iPhone情報整理術セミナー」で一番印象に残っているフレーズがあります。それは


「2010年はe-Book元年になります!」

という一言でした。@mehoriさんと@nokibaさんのお二人が口を揃えて言うのだから、きっと本当にそうなるのだろうと思って、AmazonのKindleを買おうかどうか、セミナー以降ずーっと悩んでいたのですが、昨晩真打の登場で、この予言は本当だったことが裏付けられたと思っています。
そう、もちろんAppleが発表した【iPad】です!


下記動画でiPadで書籍を読む様子があるのですが、本当に綺麗な表示だし、「紙をめくる」という興奮も上手く工夫してくれているのがよくわかります。しかもKindleとの一番の違いは「カラー」だということでしょう。写真やグラフ、こういったものもカラーでそのまま表示させることができるのです。



この端末の登場で「iPhone情報整理術」で提案されていた、書籍を裁断して取り込むというのも、取り込んだ後の閲覧性が飛躍的に向上することは確実になりました。本当にペーパーレス社会(今や死語のようですが)の実現が近い印象すら受けます。


日本の出版業界は、「取次」という会社の存在により、流通経路が複雑怪奇、且つ、文化資料の価格維持(?)とかいう目的で、定価販売が原則になっています。これは消費者の立場から言えば、本当に足かせ意外の何物でもありませんでした。しかし、こういう端末の登場によって、それこそ「個人レベル」で優良なコンテンツを、取次抜きで流通させる可能性が出てきたわけですから、規模は小さいけれど、優良な書籍を多く出している出版社、あるいは(象徴的ということで使わせてもらいます)シゴタノ!のような豪華執筆陣を抱えているサイトなどが、その執筆陣総動員でものすごいコンテンツを発売できたりするわけです。うーん、妄想が止まらない!!

私としてはどうやって我が家の財務大臣に判子をもらうかが再難関ではあるのですが、これは手に入れたい端末ですね!爆速Macbookの購入よりこっちの方がプライオリティは高そうです。さて、どう家庭内稟議書を書こうかな~?
あ、iPadはスーツのポケットにはどうやっても入らないや。手ぶら派返上するしかないかなぁ??

「こうはなりたくない!」という目標

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お気づきの方はお気づきだと思いますが、ブログのデザインを大幅に変更しました。この間の手帳オフの席で、「デザインは重要だよ」と@mehoriさんから助言をいただいたので、今の私にできる範囲で変更してみました。「自分自身の脚元をちゃんと見つめたい」という思いを込めて「脚」の写真を使ったんですが、ここでフッと気づいたことがありました。(あ、洒落じゃないですよww)先般のエントリーで、私は「夢や目標や希望や欲が希薄な人間」です。と書きました。今でも「こうなりたい!」「こういうことを成し遂げたい!」という欲みたいなものが希薄であることに違いはないのですが、どうやらこの「欲」というのは少し視点を変えることもできそうだと思ったのです。

夢や目標や希望、ミッション・ステートメントというと、ポジティブに登る山を決め、頂上を目指し迷い無く登るアプローチで、登りたい山、至りたい頂上が見えない、見つけられないもしくはわからない、私みたいな者にはとても難しいと決め込んでいたのですが、そうではなくて「こうはなりたくない」「こういう大人にはならない」といった方向から生じる「欲」、ネガティブな想いにあえてスポットライトを当てることで、登る山を選択するというアプローチもあるのではないかと思ったのです。

こういうアプローチであれば、私にも幾つかの指針がありました。

「身だしなみには常に気を配る」
→身だしなみの汚い大人はどうも尊敬できない
「粗野な振る舞いは慎む」
→粗暴で粗野な振る舞いの人はどうも尊敬できない
「身の回りの整理整頓を心がける」
→乱雑な生活、乱雑なデスクの人に仕事は任せられない
「自分のことは自分でできるようにする」
→家内に任せっぱなしのような人間にはなりたくない
「嘘をつかない」
→嘘をつかなければならない人間にはなりたくない

等などです。

「こうはなりたくない」からそうはならないように努力しようという『目標』の有り方も成り立つのではないのでしょうか?至極当たり前のことかもしれませんが、トップダウン型の書籍でも、ボトムアップ型の書籍でも、あまりこうしたアプローチは見かけないように思います。私が読み落としているだけかもしれませんが。

だとすると、「今の若い人がふてくされて反抗したくなる気持ちも良く分かる」と先般のエントリーで書きましたが、何も「環境破壊をオレが止める!」とか「核廃絶をオレが成し遂げる!」「日本経済を立て直す!」とか大上段に構えたものだけがミッション・ステートメントではないと捉えたほうが、多少なりとも伸び代のある思考と言えそうです。

「今ふてくされる気分にさせる大人たちのようにはならない」「今反抗したくなる大人たちのようにはならない」、『だから自分はこういう人間になるんだ』と決めたなら、十分にミッション・ステートメントになりえるでしょうし、身近に目標となる人間がいないのであれば、その目標にできないと思う人には一体何が足りないのか、何の要因がその人に魅力を感じさせないようにしているのか研究し、自分が他者からそう思われず、目標とされる人間になることを『目標』とする目標の決め方もありだと思ったのですが、いかがでしょうか?やはりどこかセンチメンタルすぎますかね?

私たちは何故か人の粗を探すのは得意な生き物のようですから、「こうはなりたくない」という人なら、いっぱい目に入るはずです。そうであれば、その逆を行くには今何をすべきなのか、自分はどう在ったら良いのかを考えるきっかけは沢山あることになります。私も残念ながら「目標としたくない人」の心当たりは数人います。彼らを反面教師にして、その逆に行くことを具体的にイメージしてそれを目標に、今、進められる一歩を着実に進めていきたいと思います。

モノを減らすアプローチ〜場所を無くす〜

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Twitterでもつぶやいたのですが、昨晩、某女性誌を読んでいた家内が、「結局さ、みんな最初に収納家具を買ったり、収納場所を用意するでしょ?場所があるからモノを入れたくなるんだよ。ウチは狭いからモノを持ちたくても持てないんだね!」と言いました。(多分自宅に対する不満も含んでると思われますww)

不満はともかく、思わずなるほど!と膝を打ちました。これは一考に価する言なのではないかと。「スキマ収納家具」「上手な押入れの活用法」挙句は「見せる収納(これ収納って言っていいの?)」などの特集が組まれ、収納の達人が膨大な量のモノを一定の空間にまるでテトリスのように上手いこと詰め込んでいく様子が人気です。これらを勘案すると、どうやら人はスペースがあると埋めたくなる心理というのがあるんじゃないかと思いました。

私は心理学者ではないので、本当にそういう心理があるのかはわかりませんが、乏しい知識から引っ張り出すと、ゲシュタルト心理学の中の「閉合の法則」ってのが近いのかなと思いました。要は欠落部分を感覚は知らない間に埋めるってヤツですね。ゲシュタルトという単語はMindMap講習会でも出てきました。空欄のブランチがあると、そこを埋めようと脳が連想し始めるというような内容だったと記憶しています。

Leo Babauta著『減らす技術 The Power of LESS』に代表されるように、モノを減らして、シンプルに本質だけを残そうよという書籍は多く見られます。いわゆる「整理術」に至ってはもうビジネス本の一ジャンルになっていますから、おそらく誰しもが「整理整頓」という壁にチャレンジしているのだろうと思います。

しかし、一度チャレンジして、相当な数のモノを捨てたはずなのに、何故かまたモノが増えている・・・という思いをされている方も多いのではないでしょうか?「劇的ビフォーアフター」というTV番組がありましたが、皆、尋常ではない量のモノをもっていたのが、印象に残っています。あれはきっとリフォーム(というかほとんど建て替えだよね?あれは。)をしたところで、元の木阿弥なんだろうなぁとも思います。

そこで、家内の一言です。そもそもモノを減らす前に、「モノをしまう場所」や「モノを置く場所」を無くしちゃえばどう?というアプローチです。(床に置くのが常態化しているゴミ屋敷系の人は除外しますww)こうすれば、「欲しい!」と思っても、何しろ収納したり置いたりする場所がないのですから、「じゃぁ、その代わりに何を手放すか」を嫌でも考えざるを得なくなり、結果モノが増えずにすむのではないか、こういうアプローチも効果的なんじゃないかと思ったのです。

これはオフィスの整理にも有効そうなアプローチです。例えばラテラルキャビネット1段分は割り振ってあげるけど、それ以外にモノを置いてはいけない。机の上にモノを出しっぱなしにしてはいけないというルールが出来れば、嫌でも残すべき書類とそうでないものを峻別せざるを得なくなるという仕組みが作れそうです。

幸いにも(?)我が家は二人で生活していくのに必要最低限なスペースしかないので、無理にモノを買って置くことはできませんが、では実際、どれくらいの量が適当と言えるのでしょうか?

松浦弥太郎氏は著書『今日もていねいに。』の中でこう書かれています。


P122
(ものと自分を)いつくしむ方法は、一日一回、さわること。(中略)僕が本や服を少ししか持たないのも、自分が毎日さわってあげられるものには、限りがあると知っているためです。これを裏返しに考えれば、ほんの少しの選び抜いたものだけ持つのであれば、毎日さわることも可能ということです。


では、常に触れて状態を確かめられる選び抜いたものの数の上限はいくつくらいでしょうか?Leo Babautaは『減らす技術』の中でこう書いています。


P33
家の中がものだらけ?200アイテムまでに抑えよう。


とりあえず、目標は200アイテムということになりそうです。絶対譲れないモノも入れて200アイテムまで絞り込む。基準は、毎日触れることが出来るもの。そうやって身の回りを見渡してみると、意外にまだまだ随分長いこと触っていないモノが多くあると思います。収納スペースそのものを無くし、毎日触れることができていないものは捨てていくという整理の手法も面白いかもしれません。
先日ブログ「IDEA*IDEA」で「自分が持っているものを全部のっけたポスター」という記事がありましたが、あのポスターのように自分の所有物を一望できるところまで持って行けたら、モノとのつき合い方は全く変わってくるのではないかと思います。ということで、密かに自分プロジェクトとして全ての所持品の写真を撮るというのを毎日地味に続けています。今年中に終わるのかなぁ??

書き留めることの原点と、『頑張る』の基準

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のっけから、何ですが、出来るだけリアルに想像してみてください。

あなたの大切な人が白血病と診断され、余命478日と宣告されました。
その時あなたは何をしますか?

架空の話しではありません。これは実際の話です。満田丈一郎君という少年がわずか7歳で白血病と宣告され、478日間に及ぶ闘病の様子がドキュメンタリーとしてTVで放送されたことがあります。さて、先ほどの質問です。愛する息子が白血病と宣告された時、お母さんが取った行動は「日記を付けることとビデオを撮ること」でした。このドキュメンタリーはその日記とその映像をベースに構成されています。

ユビキタス・キャプチャーという言葉はもはや有名なものになりましたし、『大事なことはすべて記録しなさい』『「結果を出す人」はノートに何を書いているのか』『情報は1冊のノートにまとめなさい』など、記録することの大切さを扱った本も相次いで刊行されています。しかし頭で分かったつもりでも、いざやってみると続かないという声も多く耳にします。

「大事なことを記録しろって言われても大事なことなんてそんなにないよ!」という人もいます。でもそれは本当ですか?
私の妹と甥っ子は既にこのブログの幾つかのエントリーで書いたとおり、殺されてしまっているのですが、今一番、私が悔いていることは、甥っ子の写真のあまりの少なさ、妹の記録のあまりの少なさです。

本当に毎日、出産の知らせを聞いて病院に駆けつけた時に撮った二人の写真を見ていないと、まるで最初から居なかったかのような錯覚に捕らわれ、遺体が発見されてからのほとんど狂ったような自分の殴り書きのノートを見ないと、本当に殺害されたのか、あの悲惨な現場は本当にあったことなのか、妹と甥っ子の死に顔すら、どんどん記憶から薄れていってしまうのです。妹が、甥っ子が自分の中から消えて行ってしまう感覚というのは本当に恐怖以外の何物でもありません。

もちろん忘れたい記憶というものもあるでしょう。しかし、今日普通に夕飯を共に食べた家族が明日は居なくなる可能性だってゼロではありません。その時、今日の夕飯で話した会話を覚えているでしょうか?その会話の時の顔は笑顔でしたか?楽しい話題でしたか?あなたは相手にどんな言葉をかけましたか?今日の夕飯はどんなメニューでしたか?これらをもし忘れてしまっていたとしたら本当に後悔しませんか?

こう考えると、ユビキタス・キャプチャーという行為の重みが腑に落ちると思います。大切かどうかは分からない、だけれども未来で振り返った時、今日という日の記録が何も無いというのは本当に恐ろしいことです。これは実体験ですが、たとえ記憶の欠片が残っていても欠片以上にはディテールを呼び起こせないのです。例えば私には幼い頃、家族で行った旅行の記憶。朧気な記憶の欠片があります。しかしそれが、いつのことなのか、どこに旅行に行ったのか、どこに泊まったのか、その日のメニューは何だったのか、妹は笑っていたのか、父や母は笑顔だったか。写真一枚すらないと、もうその朧気な記憶だけを何とか忘れないように、書き記しておくことしかできないのです。本当にあったかどうかもわからない記憶をね。このエピソードに少しでも恐怖を覚えたならば、ノートばかりではありません。今でしたらEvernoteに毎日日記を溜めていくのも、毎日写真を溜めていくのも、毎日音声を残していくのもとても有効な手段です。今すぐ始めるべきです。

先の満田丈一郎君のお母さんは、刻一刻と死が近づいてくる我が子の笑顔、様子、具合、苦しみ、悲しみ、愛おしさ、強さ、優しさ・・・何冊ものノートに書き付けた走り書きの文字の端々から、何とか残そうとする、その必死さをうかがい知ることができます。人がペンを走らせて何かを必死で記録する。その原点のようなものをこのドキュメンタリーから見ることができます。

そして、当事者の丈一郎君です。彼も非常に大きなことを正に身をもって教えてくれます。それは何か?「頑張る」とはどういうことかということです。

これは文章では説明のしようがないことなので、下記のリンク先の動画を見ていただきたいと思います。私は、ここに記録されている丈一郎君の姿こそ「頑張る」ということを体現していると感じます。

巷には何かにつけて「俺は頑張ってる!」「俺は精一杯努力している」という人がいます。でも、その頑張りは、丈一郎君の頑張りと比べたらどうでしょう?丈一郎君の頑張りと比べて、それでも「俺は頑張っている」と思えたらあなたは本当にスゴイ人です。 そうでない部分があるのであれば、それはまだまだ丈一郎君の頑張りには届いていないということでしょう。

丈一郎君は激痛に耐えに耐え、4ヶ月もの間絶食させられ(点滴からの栄養補給のみ)、想像を絶する苦しみの中にあっても尚、自分のことよりも、お母さんを思いやり、妹を思いやり、周囲を思いやり、精一杯笑顔を絶やしませんでした。さて、わずか8歳の少年がまるで菩薩のような慈愛を持って周囲と接するように、私は(あなたは)周囲の人々と接しているでしょうか?そして彼と比肩するほど「生きることを頑張っている」でしょうか?

「そうは言うけど、状況が違うよ」そう言われるかもしれません。しかし、もし自分が丈一郎君の立場だったら、彼のように激痛を堪えて、妹に優しく、お母さんに柔和に対応できるでしょうか?骨髄を取る注射を何回も刺されるのに耐えられるでしょうか?おそらく殆どの人が「無理だな」と思うと思います。丈一郎君の頑張りを見たら、軽々しく「頑張っている」とは言えなくなると思うのです。少なくとも私はそうです。ですから、私は丈一郎君の「頑張り」を【「頑張る」ということの基準】と捉えています。頑張ってるかどうかは、丈一郎君の頑張りと比べてどうかという視点で判断するようにしているわけです。

丈一郎君のお母さんのように、大切な人の今日の笑顔を、今日の言葉を記録していますか?
丈一郎君のように「生きることを頑張っている」と言えますか?


Dairymotionの動画をどうやって貼り付ければ良いのかわからないので(^^;)直接URLを書いておきます。

1/5
http://www.dailymotion.com/video/x82mx7_yyyy-yyyyyyyyyyyy15

2/5
http://www.dailymotion.com/video/x82nf3_yyyy-yyyyyyyyyyyy25_shortfilms

3/5
http://www.dailymotion.com/video/x82ot9_yyyy-yyyyyyyyyyyy35_shortfilms

4/5
http://www.dailymotion.com/video/x82ozn_yyyy-yyyyyyyyyyyy45_shortfilms

5/5
http://www.dailymotion.com/video/x82pgb_yyyy-yyyyyyyyyyyy55_shortfilms

パスワードでマインドハック!

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「マインドセット」という言葉があります。簡単に言えば自分の「心構え」みたいなものですね。


WindowsでもMacでも良いのですが、皆さん、会社のPCの起動時のパスワードってどうしています?会社のシステム部から押し付けられた、複雑怪奇なパスワードなのかもしれませんね。
(もちろんセキュリティ面ではその方が良いことでしょう)しかし、当社のシステム担当は私なので(笑)、他社さんとは、ちょっと違う設定方法を取っています。


当社では、PCを立ち上げる時、BiosのパスワードとWindowsパスワードの2種類のパスワードを入力しないと起動できないんですけど、最初に入れるBiosのパスワードに″ある工夫″をしているのです。
ちょっと想像してみてください。


朝、会社に到着し、席についてPCを立ち上げて、最初に入力する単語がもし「今年の目標」だったり「座右の銘」だったり「やる気になる言葉」だったりしたらどうでしょう?その方が、一気にやる気エンジンに火が付くかもしれませんし、常に自分の心構えを確認できたり、目標を繰り返し見ることと同じ効果があると思うのです。(因みに、次に入れるWindowsのパスワードは乱数です)


従って、私は、まず新人さんが入ったときのパスワードは「issyoniganbarou」-一緒にがんばろう-と設定して新たな仲間にWelcome!という気持ちを表すようにしています(笑)研修期間終了後は個人の座右の銘や好きな言葉などに変更しています。


例を挙げると、
「ganbarouzeore」-がんばろうぜ俺-
「sengikouri」-先義後利-
「yorihayaku-yoriseikakuni」-より速くより正確に-
「kyoumoichinichiegaodesigoto」-今日も一日笑顔で仕事-
な~んて人もいます。


手帳にメモしておくのも一つの手ですが、毎日嫌でも入力しなければならないものを活用しない手はないと思います。それに手を動かして「入力」しますので、メモを単に見返すよりも意識に刷り込まれる度合いも増すのではないかと思っています。ほんのちょっとしたことですが、もしご自分で設定を変更できる環境にある方は是非お試しあれ!


え?私ですか?仕事する気ゼロだろ!ってヤツですよww
「nonbiri-murisezu-teijidekaeru」-のんびり、無理せず、定時で帰る-
いや、本当は座右の銘にしたいんですが、長すぎて入らないので(という言い訳ww)

Moleskinにペンホルダーを装着!

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大人気ブログ「Hacks for Creative Life!」の手帳オフレポートの中で私の手帳HACK(?)も取り上げていただけていたので、ちょっとそのカラクリをご紹介。

Moleskin最大の弱点は『ペンホルダーがない』ことだと思います。私も行くであろう場所のあちこちにペンを配置してはいるのですが、マーフィーの法則でしょうか、Moleskinはあれどペンがない!というど~しようもない場面があります。ペンさえあれば自分の手にでも書けるのに!と地団駄踏んで悔しがるしかない瞬間です。

ということで、これを回避するには、Moleskinにペンフォルダーをどうにかして付けるしかない!と色々考えた結果、JMAMがBindexブランドで出しているペンシルホルダーリフィルを改造することにしました。

材料は、「Bindexのバイブルサイズ以上のサイズのペンシルホルダーリフィル」必要な道具は「カッター」・「ハサミ」・「ビニールテープ」・「ペン」です。

まずリフィルをモールスキンの縦幅
137mmに合わせてカットします。(ペンを挿した状態で確認しておかないとペンが下に行きすぎたり、上に出過ぎたりと言った不具合が生じます!)横幅はユーティリティポケットの奥行き=83mmのところにカッターでけがき線を入れ折り目とします。けがき線の上にビニールテープを貼って分離防止&補強をします。













あとはけがき線のところをぐいっと二つ折りに曲げ,短い片側をユーティリティポケットni差し込めば完成です。
差し込み式じゃなくて,ポケットに貼り付けた方が早いし良いかもしれませんが,こうしておけばMoleskineの代替わりの時にそのまま流用できるというケチケチ発想からこうしました。













しかし、残念ながらこのBindexのペンシルホルダーリフィルは多色ボールペンが入りません。JetStreamは単色ですらグリップゴムの部分が引っかかって入らないという大問題があります。これは由々しき問題です。
そこで、ちょっと発想の転換。ペンシルホルダーの上下方向を逆にしてペンを挿し込むというプチHackを開発しました(そんな大げさな物じゃないですねww)多色ボールペンの中でもグリップゴムが薄いPILOT HI-TEC-C Coletoの4色軸だと、グリップゴムの部分が落下防止にもなってくれて、丁度良い案配になりました。

Moleskinに
ペンを挿したいなぁ・・・とお思いの方のご参考になれば幸いです!

愛着品紹介011-食器3種-

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日々の食卓で絶対欠かせないのが、ご飯茶碗、汁椀、箸です。おかずのお皿は家内と共用で使いますが、この3つは共用することはないので、自分が心底気に入ったものを使うと決めています。毎日使うものなので、My基準を3つ決めてあります。まず見て美しいこと、次に実用性が高いこと、最後に作った人の顔が見えるものであること。要は100均やスーパーで売られている物は買わないよってことですね(^^;)


今は写真の3種を溺愛しています。


○ご飯茶碗

陶芸家、鈴木りょうこさんの作品。イタリアの陶芸家GIOIA SULASさんに師事し、現在埼玉県内で陶芸活動をされていらっしゃいます。


GIOIA SULASさんはイタリアの陶芸家ですが、日本の陶器に魅せられ、イタリアで独自のオリエンタルな作品を作られています。そこへ日本人である鈴木さんが飛び込み修行を願い出たというのですから、実に興味深い話しです。


鈴木さんの作品とは、昨年末の鬼子母神神社「手作り市」で出会いました。もうね、遠目から作品のオーラが違うんですよ。女性らしい繊細さ、でもがっしりとした力強さ、土の美を引き出した、優しいセンスとでも言うのかなぁ。とにかく本当に美しくて魅力的な茶碗です。


しかもとっても実用的な工夫が施されています。口をつける部分が返し(外側に反ってる)になっているので、とても持ちやすく、また口当たりがとても良いのです。これでお茶漬け食べたら2割増しの旨さは保証できます(笑) ご飯をよそうと、何というか、ふわっとしてる感じがするんですよね。お米が。これがホントに嬉しい!


もうぶっちぎりでオススメな陶芸家さんです!


○汁椀

槐(えんじゅ)の木で作られたお椀です。山形県の幸林工芸さんというお店のもの。槐の木は「延寿」と呼ばれることもある縁起の良い木なのですが、材質が堅く刃物がすぐ切れなくなり、加工するのに大変高度な技術と手間がかかる木です。


そんな槐の木目の美しさを見て楽しめ、使えば丁寧に塗られた漆の何とも心地よいこと!


この椀は足の部分に一仕事施してあって、単に足が丸くなっているのではなく、凹ませてあります。(う~ん伝えづらい)その為、引っかかることなく、スッと椀を持ち上げることができます。この工夫のおかげで、お味噌汁を飲むときなど、軽く安定して持ち上げられ、槐の口当たりと相まって、実に美味しくいただけます。お味噌汁が1.5割増しで旨くなりますww


○箸

お箸は3膳ほど持っていますが、今一番のお気に入りはコイツです。岩手県の込山裕司さんの作品です。


まず材質ですが、北上山系の標高500m以上の山肌にまばらに自生しているオノオレカンバ(斧折:別名アズサミネバリ)というかばのき科の木です。この木もまた、その名の通り、斧が折れてしまうくらい堅い木で、目の詰まった部分は水に沈む程重く、ずっしりしっかりした木だそうです。1mm太くなるのに3年くらいかかると言われる木ゆえ、とても希少性の高い木でもあります。ちなみに別名の梓(アズサ)という木は皇太子殿下のお印でもあります。


お箸の形は五角形。五角形は指と指の間のおさまりが良い形で、とても使いやすい。これきっとお子さんのお箸の持ち方練習用にも打って付けだと思います。5つの角があるので、お豆も滑りにくく、麺類は切れにくく、普通の丸箸などと比べると格段の使いやすさがあります。しかも、名入れをしてもらったので愛着もひとしお。


やはり毎日使うものは(値段の多寡ではなく)見て美しく、使って気持ちの良いものに限ると思います。

ちなみに写真にある箸置きですが、我が家では必ず季節にあった箸置きを使うようにしています(たまたま雪だるまの箸置きが洗ったばかりだったので、紅葉で代用しました)「こんなもん!」って思うでしょ?でも、箸置き一つ使うか使わないかで、食卓の彩りがガラッと変わりますから、決して高い物でもないので一つ使ってみてはいかがでしょうか?

愛着品紹介010-「痒いのは指一本分だ!」〜八重桜の銘木、孫の指〜-

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昨日の手帳オフでこの製品について話したら妙にウケが良かったので急遽エントリーします!


高齢の頑固職人がおっしゃるには、

「痒いのは指一本分!ピンポイントで掻ければそれで良いんだ。手じゃなくて指なんだよなぁ。欲しいのはさ。」


銘木とは、全国銘木連合会の専務理事を務められた春永剛聖氏によると、「貴重な木材の総称で、具体的には高品質木、大径木をはじめ、奇木、変木、老木、社寺木、由緒木、枯損木、稀木などであって、一般材とは品位を著しく異にし、優美な色彩、光沢を持ち、かつ美麗な木目などを備え、趣のある用材を採材できる原木およびその加工品をいう」と定義しています。僕は、非常に美しい木を何年~数十年も寝かせた良質の木材のことだと思っています。家具や茶道具や丸盆などに使われることが多いものです。実は木というのは切り倒したら即使えるものではありません。切ったあとでも呼吸をしているので、反ったり歪んだり、形が変わるものなのです。ですので、十分に寝かせて乾かして、十分丈夫になってから、加工して初めて製品になるのです。


そんな貴重な銘木(の端材)を使って作られたのが一風変わったこの孫の手です。背中が痒いとき、痒い場所は爪楊枝の先くらいの範囲で感じていることなのに、その周りも掻くから痒みが他にも移って、結局背中全体を掻かねばならなくなるというのが、この職人さんの主張です。なので、この孫の手の先端は約1センチ。孫の手ならぬ『孫の指』なのです!「うそだ~?」って思うでしょ?でもホント。騙されたと思って買って帰ったのですが、確かに痒いところってほんの少しなんですよ。痒みが他に移動することもないので、もんのすごく気持ちいいのです!!





さくらの木です。







コレが先端!







グリップも秀逸!





これ本当に職人さんの遊び心が作らせただけあって絶妙な一品でして、長さといい、形といい、本当に痒いところをピンポイントで掻ける優れもの。先端の丸みも上手いことよ~く削ってあるので、直に皮膚を掻いても痛くないし、手を背中に回した時に無理なく自然に握れるグリップも秀逸です。銘木ですから、木目の表情も実に美しい。美を感じる孫の手なんてそうは無いと思います。ウッチャン・ナンチャンの、ウッチャンが司会している時には必ず何か棒を持っているでしょう?あんな感じでTVを見るときとか、別にどこも痒くないのに、必ずこの孫の指をいじくり回しています。持っていてもさすっていてもな~んか落ち着く不思議な逸品です。


我が家にある孫の指はサクラの木を使ったもの。他にもケヤキとかクリとかもありますが、このサクラはなんと八重桜の銘木というからもう私のツボに入りまくり。また銘木はこれで木が死んでしまったわけでは決してなく、これからもさらに反ったり伸びたり成長していきます。しかも、毎日触っていると手の油分がワックスとなり、艶が出てきて、今以上に丈夫になっていってくれます。まさに一生物です。早く艶が出ないかなぁと毎日撫でているわけですww


しかし、この逸品も、この職人さんがいらっしゃらなくなったら、もう二度と手に入らないものになってしまうと言います。全くもって惜しい!実はこの商品はネットからも買えます。しかし、在庫数に限りがあり、且つ、完全ハンドメイドですし作れる銘木も数に限りがあることから、絶対に大量生産できないものなので、あまりおおっぴらにリンクを張るのはどうかと思うので、欲しい!と思った方がいらっしゃったらTwitterの@kazumotoをフォローしていただいて、DMかメッセージを送ってください。URLをご連絡いたします!ちなみにこの商品これだけの逸品にも関わらず¥1,800です!!安い!(と思いません?)

EvernoteとDropboxの使い分け-私の場合-

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本日(しまった!日付変わってた!)@beck1240さんの呼びかけで、渋谷で手帳オフ会に参加してきました。当然手帳オフですから、手帳の話しもかなりディープで、特に@mehoriさんのユビキタス・キャプチャーの歴代モレスキンは圧巻でしたし、@beck1240さんのほぼ日カズンも熱かったし、@kobutako2ko2さんのフランクリンプランナーの手書きリフィルとか、マインドマップも凄かったのですし、@m0r1さんの手帳無し派というスタンスも面白かったのですが、話しは次第にEvernoteとDropboxというクラウドサービスの2大巨頭の棲み分けという話しになりました。@mehoriさんはもちろん、@beck1240さん、@m0r1さん、@kobutako2ko2さんから、具体的な使い方を聞けたことは、とても貴重な情報でした。


雑誌の気になるページをPDFファイルにしたとして、それをEvernoteに入れるべきか、Dropboxに入れるべきかと悩むことはありませんか?どっちに入れたとしても、自宅のMacでも、会社のWinPCでも、iPhoneでも引っ張ってこれることに違いはありませんから、どっちに入れたって良いということになるのですが、どうやって棲み分けするのが適当なのでしょうか?


今日の話しの中で「普段私たちは複数の顔を持っている」という話しが出ました。この一言で「僕の使い方はまんざらヘンではなさそうだ」と思えたので、記事にすることにしました(^^;) ます、少なくともプライベートの顔と、仕事場での顔とがいて、両名が必要としている情報は異なるのではないかと思うのです。具体的に言うと、私は光学関係の仕事をしていますが、仕事では反射率が何%だとか、励起波長が何nmだとかいう情報は必要な情報ですが、プライベートでは全く必要ありません。プライベートでは、職人技で作られたお椀の蘊蓄とか、ささくれを防ぐ方法だとか、そんなコトが欲している情報だったりするわけです。


この考えに即して、私はココ数ヶ月、プライベートで気になった情報はほぼ全てEvernote。仕事で必要なMicrosoftOffice系の資料や仕事に関するデータは全てDropboxと使い分けています。(一部の閲覧頻度の高いPDFファイルはGoodReaderを使って、iPhoneに入れています)


会社で必要な資料をDropboxに集めることのメリットは、Dropboxフォルダの中でほぼ全ての仕事が完結する環境が作れることです。フォルダをCドライブやDドライブのあちこちに作って、その整理に時間を取られることが無くなることだけでも大きい変化でした。常にそのフォルダにアクセスすれば必要とする情報は全部あるのですから安心度が違います。私が仕事で使うファイル量はそれほど多くないので、無料の2GBで今のところギリギリどうにかこうにかなっています。アップグレードが必要な時は近そうですが(^^;)


対してEvernoteは完全に私個人が気になった情報の集積場。Premium会員になったことで完全に箍が外れ、気になった情報をポンポンと日々コツコツ預けていっています。EvernoteのCEO Phil Libin氏が言う『外部脳』とは、攻殻機動隊で言うところの『外部記憶装置』だなぁと最近つくづく思えるようになりました。読んだ本のメモ、気になった伝統工芸品の蘊蓄、所有物のリスト、気になったブログの記事、気になった製品の記事、生活のアイデア等々。ぜ~んぶ放り込んであるので、あとからザーッと見るだけでも、「あ!この職人さんの技術は、コッチの製品にあればもっと良い!」とか、「整理整頓に関する記事が多いなぁ」とか、気になったものをくっつけたりしてアイデアになることもあれば、単純に興味の傾向を知ることができるようになる感じがします。(最近Windows関連の記事は全くスルーするようになっているのが明らか!)


Evernoteに預けた、気になったことを引っ張り出すのには、タグを使用しています。預ける時、もしくは読み直した時に「感じた重要度(5段階)」「後で探す時に考える"だろう"キーワード」をタグとして付けていきます。今のところ、ノートブックは「名刺」「取説」「雑誌スクラップ」「セミナーメモ」といったくらいで、基本的には「000_UbiquitousCapture」というノートブックに集まっています。アタマに000と付けているのは、追々整理する必要がありそうだからです。この整理は始めるととっても楽しそうなので、もうちょっと貯めつつ、ちゃんと考えてからやろうと画策中です。


ただ、全てをEvernoteに!と行かないのは『動画』の存在です。最近、面白い動画があちこちにあるのですが、これをEvernoteに集めることは今のところできません。その為、動画を取り扱った記事の場合『動画』タグを必ず付けるようにして、後で追えるようにしています。ココだけもの凄く残念ですねぇ。上手い方法はないものか?


私のMacBookに残るデータは音楽のデータと動画、写真です。音楽データと動画はDropBox、写真はFlickerが良いのかな?この辺もおいおいという感じですね。


とりあえず、Dropboxは外付けHDDみたいなものだと言えば、とっつきやすいし、使い方がイメージし易いサービスなのかなと思います。反面Evernoteは非常に説明しづらい。スクラップブックでは軽いし、外部脳ではイメージしづらいし。しかも気になったことをとにかく"貯めて"いかないと、ある程度数がまとまらないと、その真価がわからないサービスだと思います。貯められなくて使わなくなる人も多いんじゃないかなぁ?


でも、これは多分「情報を集める」なんて堅苦しい言葉を使うからだと思いました。

「インターネット見ててさ、面白いなぁとか、コレ欲しいなぁとか、この文章良いなとか、この本はこういう角度からも読めるのか!とか「へ~」とか「おお!」とか「ほほ~」とか思うコトってあるでしょ?それを集めておけるんだよ」とか「オンリーワンのデータベースが作れるんだぜ!」とかいう説明で良いんじゃないかと思います。Googleで検索すれば良いジャンという人もいると思いますが、「でもさ、過去に興味を持った製品名が思い出せないから検索してもHITしないとか、もう一度検索してもその情報に辿り着けないということを無くせるんだぜ」って説明すれば少し違うのかもしれないなと思います。


まぁ、偉そうなこと言ってもまだまだ使い込めていませんけどね。何かの参考になればコレ幸いです。

魁皇関の努力と浅田真央選手の努力

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今日、大相撲初場所で魁皇関が、幕内勝利数807勝となり、元横綱・千代の富士が持つ史上1位の記録と並びました。史上1位に並んだことに対して魁皇関は

「(記録は)意識していたわけではなく、目の前の相撲を1番1番取っていくしかない」NHKニュース

とコメントされたそうです。と、ここまでなら「すごい人だなぁ」で終わってしまうのですが、愛読しているブログ「Hacks for Creative Life!」の本日書かれたエントリーの中で、フィギュアスケートの浅田真央選手のコメントを引用され、こう書かれていました。

バンクーバオリンピックへの出場を決めた浅田真央選手が全日本選手権の直前に言っていた一言
「オリンピックに出たイメージはいつもいつも描いているので・・・」
これは将に目標を達成するイメージを明確に描き出し、行動へのモチベーションとしている良い例だと思います。

つまり、浅田真央選手は目標を具体的に思い描いて努力を積み重ねてこられている。対して魁皇関は目標を意識することなく努力を積み重ねた結果大記録に至ったわけです。このことはトップダウンの生き方が良いのか、ボトムアップの生き方が良いのかという議論と全く同じ図式です。奇遇だなぁと思っていたところ面白いことに、同じく今日、これまた愛読しているブログ「R-Style」のR-Style別館で「無理をして夢やビジョンを持つ必要はない」というタイトルでトップダウンの生き方は無理だという論を展開されたブログに対して世代間の差という観点から考察されておられました。

時の人である勝間和代さんや、本田直之さんは完全に前者、トップダウン型と言えるでしょう。なるほど自分の夢を目標を描いて書き出して、そこに最小の努力で最速で辿り着く。非常に合理的な生き方の戦略・戦術だと私も思います。

さて、私です。私は「夢や目標や希望や欲が希薄な人間」です。だから目の前のことをこなして、後で振り返ったら頂上だったという生き方もありじゃない?ということを、以前このブログでも書きました。ですから、「無理をして夢やビジョンを持つ必要はない」という論には共感を覚えます。rashita2さんが考察されていた年代を十分に超えていますけどねww 個人的にはトップダウン型の人の論は押しつけがましく感じるし、粗探しをしてしまう時があると正直に告白しておきます。

例えば、カツマーの方々にはもの凄い怒られそうですが、勝間さんが著書の中で宣言されていたミッションステートメントと紅白歌合戦の審査員という仕事の間に何の因果関係があるのか私にはさっぱり分かりません。本田さんもグローバルにとおっしゃるなら、著書を英語圏で出版した方が絶対読者数は多いのだから、その方が良いのでは?と穿った見方をしてしまうわけです。

それはともかく、いずれのアプローチにせよ「努力」は必要だということは再認識しておくべきだと思います。というよりも「努力」という視点が抜けていないか?と思うのです。
最小の努力で最短距離を走ったわけではありませんが、負けても負けても努力してついに史上1位に並ぶに至った魁皇関の地道な努力を貶められる人はいないでしょう。

時代のアイコンとなられた勝間さんにしても本田さんにしても、そのキャリアから鑑みて本人は「最小の努力で最短距離を」走ったとおっしゃっているだけで、端から見たら血のにじむような努力があったのではないかと思うのです。
私は勝間さんは素直にすごいキャリアと実力の方だと思います。しかし100%勝間さんと同じ方法を試みたところで、会計士の試験やその他の資格試験に合格しない自信があります!<威張って言うなww つまり私個人としてはトップダウン型の人に違和感を感じるけれど、その人の努力は素直にすごいことだと思うし、その人の努力を少しでも見習おうと思うのです。

「無理をして夢やビジョンを持つ必要はない」のかもしれませんが、ただ漫然と生きるのではなく、魁皇関のような姿勢で、目の前のことを一つ一つ努力し積み重ねていけばその道程で「コレだ!」というものが見つかるかもしれません。あるいはある日ふと気づいたらスゴイ場所に到達していたということがあるかもしれません。

だから、今の若い人がふてくされて反抗したくなる気持ちも良く分かるんですが、私と同じように目標や夢が無かったとしても、目の前の仕事、目の前のやるべきことに「一意専心」の心で取り組む態度を選ぶべきだと私は思います。ラクして目標は見つからないし、ラクしてスゴイ場所には到達できない。これは不変の定理ではないでしょうか?

生きるのは大変なことです。みんな頑張っているはずです。でも世を拗ねるのでは何も変わらないでしょう。「努力しよう!という態度を僕は(私は)選ぶんだ」と再確認しておくだけで、随分周りの景色は変わってくると思います。そうなればトップダウンだろうとボトムアップだろうとそれは自分にとっては結果論でしかなくなるでしょう。

時間という山の登り方-ライフハック心理学セミナー感想-

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昨日、佐々木正悟さん主催のライフハック心理学セミナーに参加してきました。今回のセミナーで、私が特に聞きたかったことは先般よりつらつらと書いている「時間管理」について。Evernoteの使い方も議題でとっても勉強になり早速マネしているのですが、それよりも、なぜToodledoで佐々木さんが事細かに時間を見積り、その見積りに合わせるようにしているのかを、もっと知りたかったのです。

結果として、大きく4つのことが見えてきました。

①.タスクのゴール地点、ゴールへの到達予想時間が見えることが佐々木さんにとっては安心できることであるようだ。
②.特定の時間帯にあるタスクをやろうと決めていたとしても、取り掛かるまでの心理的な障壁があるものであるらしい。
③.②の障壁を取り払う工夫を前後に散りばめ、自分をそのタスクに取り掛かれるように時間帯を俯瞰するツールとしてもToodledoを使っておられる。
④.時間を見積るというのは、24時間というスーツケースに全ての荷物というタスクが入るのか入らないのかをわかるということであり、これがわかると心理的に楽になれる。

そして、これらを私の脳内実験と実際の実験の結果と付け合せたところ「私のワークスタイルへの適用は難しいといわざるを得ない」という結論と、そしてその理由は「時間という山の登り方の違い」と例えることができそうだと思いました。

具体例としてセミナーで佐々木さんが挙げられていたものを取り上げて考察します。お題は「800ページの英語の本を3ヶ月(90日)以内に読破し、レポートを提出せよ」です。

このお題に対し、佐々木さんはきっと、たぶん、恐らく、下記のように考えるのだろうと思います。

A.1日24時間の内、睡眠時間や風呂などを引いた、1日の内使える時間を最大で10時間と仮定する。
B.締め切りまでの持ち時間は最大で、90日×10時間=900時間。
C.最後の30日をレポート作成にかけるとしたら、使える時間は最大で600時間
D.1ページ読むのに10分かかるとした場合、6ページを1時間で読める。すると、800ページを読了するのに133時間かかる。133時間というと、毎日10時間フルに使って13.3日
E.毎日4時間24ページづつ読んだとしたら33日。この辺で手を打つと仮定します。
F.一日4時間必ず本を読み進められるように、読む時間帯を割り振り、読んだ後に「快」を仕込み、読む前にも「読む気にさせる何か」を仕込んでおいて、とにかく一日4時間、6ページは読むように自分を持っていくようにする。
G.しかしこの4時間を捻出するために"何かが"24時間からはみ出しているはずなので、それが何かも気になる。
H.そのはみ出した"何か"を把握できると心理的に楽だなぁと思う。
I.そもそも一日の内で何時~何時までは、自分はいつも何をしているのかを把握しておいた方がタスク総量が24時間という絶対不変の箱の容量内で収まるかどうかわかって便利だ。
J.タスクシュート→Toodledoは打ってつけのツールだった。
ということで、全てのアクションを見積もる必要が生じたのだろうと思い至ったわけです。

では、私だったらこのお題にどう取り組むか。

A.ふーん、800ページを90日ね。まぁどんなもんだか、1回目はザッと読んで、わかんないところに付箋を貼ろう。2回目はわかんないところをちょっと調べて、レポート作ろうっと。くらいの段取り?を組む
B.1回目のとにかくザッと読むから即時実行
C.ザッと読めさえすれば、何とか終わるはず・・・
となると思うのです。書いておいて何ですが、我ながらなんというアバウトさ・・・orz

えー、気を取り直して、これはですね、多少強引ですが登山方法に例えられると思うのです。
佐々木さんは山の情報や天候、装備等をとてもとても入念に確認した上で、確実なルートを調べてから登るタイプの登山家、極地法的な周到さ。今だったら野口健さんはこの方法なのかな?
私は、山全体と天候を確認し、最低限の装備を確認し、見えたルートを最速で登るタイプの登山家、アルパインスタイル的。山野井泰史さんが代表ですね。
つまり、登り方の違いであって、山に登るということは同じですし、準備はするのです。ただ、その準備度合い、下調べ度合い、段取りの細かさ度合いの程度差なんだろう思います(山野井さんが無謀なように読めたらゴメンナサイ。世界屈指の日本が世界に誇るトップクライマーです。準備不足なんてありえないですから。念のため)

また、これはどうやら私だけのようですが、私は仕事においても、プライベートにおいても、誰かから投げられたタスクに対して心理的障壁を殆ど感じることありません。
投げられた以上、やらなければならないこととしか思いませんし、ザッと段取りを組んだら即行動開始。先般のエントリーでも書いたとおり、「すぐタスク」が多いことも影響しているのでしょう。
むしろグズグズしてボールが私の手元にいつまでもあるなんて方が気持ち悪くて仕方ないので、とにかく投げられたボールは打ち返して、いつでも次に投げられるタスクに対応できる姿勢をキープすることが、「なぜか」できているのです。

前回のセミナーで、朝起きて「今日の夜はこれをやろう」と思っていても、夜の自分は「めんどくせ~」とまるで別の人格のようになりがちなものだという説明がありました。しかし、私にはこれが全く理解できなかったので、朝「読もう」と思った本を、リビングテーブルの上に置いておいて、帰宅したら本当に読みたくなくなっている自分がいるのかの実験をココ1ヶ月間していました。
結果は、一回もその本を読まなかったことはありませんでしたし、本以外でもクローゼットの整理とか、本棚の整理とか、トイレ掃除とか恐らく大多数が「めんどくせー」と思うであろうことも混ぜてみたのですが、朝決めたことを夜実行しなかったことはありませんでした。多分私が変わっているのだと思いますがww
従って、タスクに取り掛かる為に何か仕掛けをする必要は今のところ特に無くてもOKですし、終わった後に「快を仕込む」ことに至っては、私の場合は完全に逆効果で、褒美のほうに意識が向いてしまって作業が進まないという事態になるだけだということがわかりました。(ちなみに褒美は大好きなチョコレート)

そして、仕事の性格上、カーブがシュートかフォークか消える魔球かも不明で、要する時間が全く見積もれないタスク「すぐタスク」が投げられることから(全く球が投げられない時もあるわけです)、Toodledoで事前に見積もっておいて、使い込んで精度をあげ、自分の行動と見積りの整合性が取れるようにし、迷ったりする時間を無くすというのは、私のワークスタイルに当てはめるのは、極めて難しいことだという結論に至りました。

また、仕事でプライベートでも上記のように心理変化?のようなものが希薄なようなので、「あれやって」と家内から言われればやるし、朝決めたやろうということはできているし、それで就寝時間が押されることも無く、何でかわからないけど24時間というスーツケース容量に全て収まってしまっているのです。

なぜ、こんな適当且つアバウトな方法で、さしたる問題も無く仕事をこなせていて、家内が激怒する事態に至らないのかは、今後考えてみる必要があると思いますが、佐々木さん流の時間見積り管理術と私がやっている時間早撃ち式管理術?(こんな言い方で良いのか?)はちょこっと手法が違うだけで、いずれにしても24時間という箱の中にやるべきこと、やりたいこと等が収まっていさえすれば、良いという点は同じなわけです。
格闘している相手も同じですしゴールも同じだと思って見直すと、なるほど佐々木さんのやられている管理術はかなりマニアックではあるけど、佐々木さんと同じような心の動きをする人、合理的な人には、とても魅力的だろうと再発見できました。

私の時間管理はあまりにも適当ですし、私の心の動きも変みたいなので、今はたまたま上手く箱に収まっているだけなんでしょう。いずれ来るであろうピンチに備えてライフハックやマインドハックの類いはEvernoteにドンドン収集しておこうと思います(笑)

接客の奥義『本番共有力』

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Blog「感じ通信」に「家電量販店」というエントリーが掲載され、家電量販店の店員の対応を熟考していらっしゃいました。共感する点ばかりだったので、反射的にエントリーします。

実はこの内容とほぼ同じことを年始に家内と話していてひとつのキーワードが浮かびました。それが『本番共有力』です。

具体例を挙げると、家内は仕事用の服を23区とかINEDやCOPE DE CHANCEなどで物色する(私は付き合わされる)のですが、このところINEDばかりになってきました。理由は店員さんの応対がとても気持ちの良いものだから。

では、どういう仕草が気持ちよく感じるのか。柳原加奈子さんの芸ではありませんが「今年の流行で~」とか「良~くお似合いですぅ」とか「すごい売れてるんですぅ」等のセールスポイントを一方的に捲くし立てられるのは私たちにとっては正直ゲンナリする以外の何物でもありません。

そこへ来るとINEDで贔屓にしている店員さんはまずこう言います。

「どのようなシーンでお召しになられるものをお探しですか?」

普段着を探しているのか、重要な仕事の席で着るものなのか、外出が多いのか、室内での仕事が多いのか、座っている時の姿が綺麗に見えるものを探しているのか、立ち姿が綺麗に見えるものを探しているのか。とにかくこちらが考えている利用シーンをじっくりヒアリングして、初めて「では、こちらなどはどうでしょう?」と薦めてきてくれるのです。当然試着した際も、そのシーンに合うように座り姿重視であれば椅子を用意してくれますし、立ち姿であれば、大きい鏡の前に案内し、実際に歩いている姿を確認できるように段取りをしてくれます。(で、その姿を家内があとで確認できるようiPhoneで撮影させられる私・・・)

これは、何もB to Cだけの話ではなく、B to Bでも同じことでしょう。「客の立場になって考えろ」とはどこの会社でも言われていますが、その奥義の一つが『本番共有力』だと私は思っています。客と一緒に利用シーンを共有し、どういうものであればそのシーンで使えるか、例に挙げた洋服であれば利用シーンにふさわしく、着ている本人の魅力を引き出すものなのかを共に模索していくこと。これが客の立場になって考えることに他ならないと思うのです。

何も商品の安さだけがセールスポイントではないはずです。正直、同じようなスカートが23区にあって、そちらが安かったとしても”気持ちよく買えるから”家内はINEDを選んでいます。私も豊富な商品知識があり、こちらの要望を満たすものを一緒に探してくれるお店を贔屓します。なによりこうした接客を常とする店員さんからは「金の臭い」がしないのです。客を見たらカモがネギを背負って来たとばかり、如何に買わせるかという商売っ気オーラ全開で接客されても逃げ口上を考えるようになってしまうのに。

接客のみならず、友達と話をしているとき、同僚と話をしているときに、この点を少し注意するだけでグンっと距離が縮まると思います。

命の原点-書評『マタギ-矛盾なき労働と食文化』-

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ヘンリー・D・ソローの『WALDEN 森の生活』を読了したことは先に書いたとおりですが、ひとつだけ気になることがありました。ソローは田畑を耕し、植物を摘み、魚を釣り、たまに日雇い労働に出て、半自給自足生活を送ったわけですが、なぜか「狩猟」についての記述がないのです。人類が誕生し、食料調達のために行ったことは、狩猟採集でしょう。これは農耕以前から行われていた最も原始的で本能的な行動なはずです。なのに採集については書いていても狩猟については書いていない。このことに強烈な違和感を覚えました。そして「森の生活」と言っているが、あれはあくまでソローの実験にすぎない。現実に今も狩猟採集を行っている人々のコトが知りたい・・・こう考えたときに『マタギ』という存在を思い出しました。

日本に『マタギ』と呼ばれる特殊な狩猟集団が北東北から長野県北部の雪深い山間部に現在も実在しています。普段は公務員だったり旅館を営んでいたりするそうですが、皆、狩猟を行う人々"狩猟者"です。狩猟という行為に対し非難の声を浴びせられることも多いことから、頑なに取材を断り、マタギに関しては、つまらない民俗学的な本があるだけだったのですが、なんと著者の田中康弘さんは、そんなマタギたちと友人となり、実際に狩猟の現場へ同行させてもらいます。狩猟の現場を取材した貴重で且つ第一級の資料とも言えるのが本書『マタギ 矛盾なき労働と食文化』です。

熊を獲り、皮を剥ぎ、解体し、食す。
兎を獲り、皮を剥ぎ、解体し、食す。
冬の川で(恐らく最後の)伝統漁法で魚を捕り、食す。
山に分け入り、渓流で岩魚を釣り、食す。
山に分け入り、茸を採り、食す。
山に分け入り、天然舞茸を採り、食す。
最後には聖域とも言える「熊狩り」へも同行し(しかも巻き狩りではなく、「忍び」と呼ばれるほぼ単独で行う奥義のような猟法!)その一部始終をありのままに伝えてくれます。
“今では魚でも肉でも綺麗にパック詰めされている。それが命あるものだったとは感じさせない妙な工夫が施され、単なる食材としてしか意識されない。食肉は特にそうだ。まず命を奪うことから始まり、血と脂の中で解体されていく行程がまったく隠されているのだ。果たしてこれは正しいことといえるのだろうか。私はそうは思えない。他者の命を頂くことで人が生きていくという大切な行為は、狩猟の中にその全てをみることができる。
マタギの狩りは欧米のスポーツハンティングとは立脚点が違います。やたらに殺生するわけではありません。獲った獲物には最大限の敬意を示し、その血の一滴まで無駄にすることなく食し活用します。なにより大自然を相手に「生きるということ」は一人では行えず、仲間、家族を必要とするんだということが腹の底から良く分かります。人が何故コミュニティを作るに至ったか、この本でようやく理解できました。なぜ他人を尊重しなければならないのかも。そして狩猟が原始のコミュニティにとってどれだけ大事なアイデンティティだったのかも。

マタギの弘二さんは、天然舞茸を採ったあと、売れば結構な金になるらしいのに売らず、親戚や仲間に分けます。なぜ売らないのか?
“「ばかくさい」
弘二さんはきっぱりと言う。金を拝むことを喜びとはせず、自然の中から深い喜びを得る暮らし。そしてそれを共有できる人達とのつながりを宝とする、素晴らしい生き方だ。このような考え方は現代社会からは殆ど消えていきつつある。
「ばかくさい」この一言に、物質文明への回答の全てが詰まっているような気がしました。金や物がどうこうではなく、山に(海に)祈り、獲物に敬意を表し、山の(海の)恵みに感謝し、その心を仲間達と共有する暮らし。これが「生きるということの原点」なのだろうと私は思います。

地球温暖化や食品偽装などの不安から、田舎暮らしや山里の生活を見直す機運はあります。キーワードは「エコ」「ロハス」「身体に良い」などです。しかしこの本を読めば、それらは全て嘘くさいと言わざるを得ません。笑ってしまうくらい軽すぎると感じます。田舎の人間も、都会の人間も「他者の生命を奪って食って生きている」のは同じ。ただ命が生きている現場、命を奪う現場を身体でわかっているか否かは厳然たる違いです。本書を読んだ後では、先のキーワードは、何というか臭いものに蓋をするかのような、口当たりが良いだけの、上っ面な言葉にしか思えなくなります。

ソローの暮らした19世紀でも、すでに狩猟は縁遠いものだったようですから、狩猟採集の文化が残る地域は、残念ながら消えていく運命なのかもしれません。山も川も海も汚染され、開拓され、埋め立てられ、環境が変化し、動物もドンドン少なくなっています。私たちが実際に山に入り命を仕留めること、生命維持の原点を全身で味わうことはもうできないことでしょう。しかし、スーパーで売られている鶏肉や豚肉、牛肉、羊肉、刺身、干物、etc は命あるもので、ちゃんと生きていて、それらが解体された姿なのだということは、肝に銘じておく必要があるだろうと改めて思います。

本書はルポとして、真面目に、気負いなく、真摯に、素人の目線で、等身大のマタギの姿が綴られた本です。「生きるということの原点」を知る意味で読んでおくべき本です。熊の解体など恐怖すら覚える写真も多いですが、見なければいけない写真です。恐らく、等身大のマタギの姿を捉えた本はこの本が最後になるでしょう。マタギも継承者がいないとのことですから。しかし、その生き方が我々に教えてくれるものは、 決して忘れてはならない「命の原点」だと私は思います。

「日報」を能動的に使うHack!

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会社勤めをしている人の多くは一日の終わりに「日報」を書くと思います。営業職の方であれば、訪問先、面談内容などが主になるでしょうし、バックオフィスの人は、その日に行った業務(作業)内容、プロジェクトの進捗度合いなどを書いていらっしゃると思います。また、日報の提出形態として、E-Mailで送信する、グループウェアに書き込むなどが一般的かと思います(さすがに手書きは少ないでしょう)私の会社ではE-Mailで送信します。

日報を書くというのは気の重い作業だとおっしゃる方がいらっしゃいますが、私は日報の使い方を変え、億劫なものではなく、むしろ、積極的に使えるようにしています。

私のやり方はこうです。朝一番に今日のタスク一覧を日報の形に書き出しておいて、逐次そのタスクの詳細を肉付けし、先の記事に書いた「すぐタスク」を終わったそばから書き加えているので、退社時にいちいち思い出したりメモを見なくても半自動的に書き上がっているという仕組みにしているのです。たったこれだけでも「日報を書く」というタスクのストレスレベルはグンと下げられます。

昨年の年次レビューをしていて、この日報をさらに能動的に使えないものかと思いました。BCCでGMailにも送っているので、即時検索はできるのですが、どれくらい前のことなのか日付だけみてもいまいちピンと来ないのが難点でした。そこで、Googleカレンダーに「日報」というカレンダーを加えて、その日の日報をカレンダーとヒモづけてみたところ、これがなかなかどうして便利だということがわかりました。

Googleカレンダーには予定の「説明」を書き込める欄があります。ここに日報を丸ごとコピペしただけなのですが、カレンダーには反映しづらい「すぐタスク」なども月にどれくらいの量が発生しているのか把握し易くなりました。カレンダーには大まかな予定しか書き込みしないと思うのですが(例えば「14:00 A社訪問」等)その日の日報を見られれば、A社で誰に会い、どんな面談内容だったのか一目瞭然です。

さらに一歩進めて、ユビキタス・キャプチャーの内容も『UC』というカレンダーを作り、一日の気づきをカレンダーとヒモづけるという実験を始めてみています。メモは見直さないと意味が無いと言います。スキマ時間に過去のカレンダー+日報+UCが見ることができるので、一日をより多角的に見直すことができ、改めてアイデアのきっかけを得ることができるのではないかと思います。

職務として提出しているだけの日報を、朝書き出すことでスッキリ整理した状態で仕事が始められ、日報提出の遅延が生じることを無くすことでストレスを減らし、尚かつ、振り返る時にもカレンダーを見るだけで、その日の自分が何をして過ごしていたのか、何を考えていたのか、見直すことができるようになります。

日報をメンドクサイこと、イヤイヤ出してるという人も多いと思いますが、ちょっとしたことで良いペースメーカーに変身させられると思います。

『WALDEN 森の生活』読了!

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あけましておめでとうございます!今年もどうぞ宜しくお願いいたします!
新訳版『ウォールデン 森の生活』を読了しました。過去あれほど苦戦し、全く理解できなかった本でしたが、この新訳版でようやく、ようやく少し腑に落ちました。そしてちょっとした発見をしたので、新年一発目はそこから。

ソローは読書について、こう言っています。
本は、書き手と同じひたむきな気持ちで読まねばならず、書き手が込めた深い意味を推し量りながら読まねばなりません。
年末年始の殆どの時間をただひたむきな気持ちでソローの宇宙を少しでもくみ取れるようじっくりじっくり読みすすめました。
ソローは森に自分で家を立て、ほぼ自給自足で暮らします。こうしたシンプルな暮らしを行ったのは「生活にかける時間を徹底的に減らすことで精神にかける時間をできるだけ増やす。」「物質崇拝の社会を客観的視線で検証する。」などが動機でした。
食べることさえ徹底的に簡素化しています。「食欲という欲望の奴隷になって自由を失うのがいや」で、「贅沢の為にお金を稼ぐのがばかばかしいと思った」こと「生活の為に時間を費やしたくなかった」ことなどが理由だと書いています。
さらに、ニュースやゴシップ、町で交わされるうわさ話の類も全く無駄なものとして退けています。

生活をより簡素に必要最低限に留めたソローが選んだのは、能動的な生き方です。こちらが望みもしないのに飛び込んでくるものの中で何が良いもので何が無駄なものであるかの判断が追いつかないままに溺れて流されて暮らすのではなく、自らが選び、自らのためのものの中で暮らそうとしたのです。自らが選択して身につけていく良い情報として古典を読むことと、身の回りの世界を眼を凝らしてつぶさに観察することを薦めています。実際この本も多くの神話や古典を紐解き、引用し、森の動物や昆虫、池のことなど周りの自然をとても丁寧に観察し、とても豊かで充実した生活を送っている様が読んで取れます。

ソローの住まいは自分で建てた、食料保管のための地下室がある、暖炉を付けた一部屋だけの小屋です。そのシンプルな家にあるものと言えば、
ここに私の家具の品目を挙げておくと、ベッド、テーブル、机がそれぞれひとつ、椅子三つ、三インチの手鏡、暖炉の火箸と薪を載せる台、やかん、鍋、フライパン、ひしゃく、食器洗い用ボウルがそれぞれひとつ、ナイフとフォーク二セット、皿三枚、カップ、スプーン、油差し、糖蜜差し、それに漆塗りのランプがそれぞれ一つなどです。
たったこれだけ。でも・・・日本人だったらもっと削れる!と私は思いました。

”和風森の生活”を想像すると、ベッドの代わりに布団(コンパクトにたためる!)テーブルの代わりに卓袱台(折りたたみ可能!)机は卓袱台が担います。椅子は不要。座布団を必要とするか、布団で代用するかですね。暖炉は七輪があれば、布団を卓袱台にかぶせて簡易コタツにすれば暖は取れます。調理器具はまぁ同じようなものかな。でもフォーク二セットは箸一膳で済みます。皿三枚は茶碗とお椀と皿になるでしょう。ランプは蝋燭になるでしょう。と、ココまで考えて一つの風景が浮かびました。

究極的に何も削るものがないところまで無駄を省いた空間・・・そう「侘び茶(草庵の茶)」の世界です。この空間では上下の関係はなく、豊かなもてなしの心で満たされています。「露地」の自然から既にもてなしの心の現れであることも考え合わせれば、千利休が構築した茶道は一種の”和風森の生活”といえるのかもしれません。

庶民の暮らしを考えても、長らく暮らしてきた居間という空間は、リビングであり、ダイニングであり、寝室であり、書斎であったわけですから、当時の日本人は簡素でミニマムな暮らしの達人揃いだったのではないかと思います。もし、こうした質素な生活の反対には豊潤な精神世界があるのだとしたら・・・そんなことを考えていたところ、年末特番を見て、山口百恵さんが「秋桜」を歌っていたのが18歳だということに驚愕しました。なんと大人びた顔をした18歳なんだろうと。改めて検索してみたら、夏目漱石や芥川龍之介、菊池寛、太宰治、三島由紀夫、等々、昔の小説家の写真は皆、もの凄く大人びた顔をし、意志的で強く透徹した目をしていることに気づきました(漱石は諦念か?)。百恵さんはともかく、昔の多くの文豪、文化人の写真を見ると、明らかに今の日本人とは目つきと顔つきが違うということには、多くの方に頷いていただけると思います。

この顔つきの違いは精神の豊かさの差なのでしょうか?長屋→一軒家→アパート→団地→マンションと住まいが変わって行く中、生活はどんどん欧米化し、畳はフローリングになり、コタツはエアコンや床暖房に代わり、あらゆる面で物質的に豊かになり、経済的にも随分豊かになり、内省し精神世界を豊かにする時間はあって然るべきはずなのに、どうして私たちの顔は幼く、昔の人の顔は大人びて意志的なのでしょうか?

ソローがこの本を書いたのは1850年代。浦賀に黒船が来たり、ナポレオンが皇帝になったような年代です。テレビも飛行機も電話もない時代です。そんな昔でもソローに言わせれば、人々は暮らしを複雑にすることから逃れられなくなったと写るそうです。そこでソローは約2年間、町を離れ森に入って、生存に必須なもののためだけに働くという実験を試みる。あえて社会との距離をおき、「最も大切な必要」である「人間を耕す」ために空白の時間を設けた(空けた)わけです。

さて、私は「自らを耕す」時間を持てているのか?生存には不要な物質ばかりに目を奪われていないか?生存に不要な情報に耳を奪われていないか?命を維持する以上に食べてはいないか?生きるために必要な香りを知っているか?近くの木々の成長、動物の成長を感じ取れるか?なにより自分が真に必要なものとは何か思いを巡らせているか?自分のに必要な物を知っているか?答えは全てNoでした。

今の私の置かれている状況では、ソローと同じような生活を送ることはほぼ不可能ですが、身の回りを見直し、自分の生活を能動的なものにできるよう、今年一年、あらゆる自分の中に作ってしまった枠を疑い、できるだけ時間は「自分を耕」すことに使うようにし、何事も慎重に考えながら生活をしてみようと思います。

まだまだ多くの気づきが得られる本です。繰り返し読みつつ発見があればブログでアウトプットしていきたいと思います。