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Double Work≠Double Check

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当たり前の事ですが、いわゆる仕事術の本で紹介されているテクニックというのは「手抜き」を推奨しているわけではありません。しかし、こと仕事の効率化をいうものを考えた時、何でも無駄と思ったことをぶっちぎって、最短距離を走ることと同義と勘違いしてしまうことも多いと思います。
 
今週(5/18)営業本部長殿の至言をTwitterで呟きました。
 
二度手間とダブルチェックの違いを考えろ!

入社半年の同僚が勝手に手順をかっ飛ばしたことに対して一喝したときの台詞です。これはピンと来たので、反射的に呟いたのですが、この指摘は仕事の効率化というものを考える上でとても大事な視点だと思うのです。
  • 二度手間・・・一度ですむはずのことに、二度の手間をかけること。
  • ダブルチェック・・・二重に確認すること。

大辞林ではこのように載っています。かなり紙一重ですが、この二つの言葉は全く違うと思います。私は「二重に確認して正確を期すこと」とダブルチェックを定義しています。ね、違いが明白になるでしょう?

二度手間は明らかに一人でできることを、わざわざ二人以上でやっているわけですから、この手間は無くしても問題ないはずです。ただし、一人に負荷がかかるわけですから、その人選は慎重に行う方が良いと私は思います。

一方、ダブルチェックが機能していて、正確な仕事を一発で成し遂げる仕組みができあがっているのに、作業員2人以上分の手間と時間がもったいないとかっ飛ばしてしまったら、ミスが格段に増えて、仕事量・仕事時間がよりかかってしまったという本末転倒なことにもなりかねません。

まず私たちが引っかかった仕事上のボトルネックがあったとして、それは二度手間なのかダブルチェックなのかを考えるクセをつけた方が良いと思います。そしてその手間を省くとどうなるかを考えるようにしましょう。自分たちの手間は減るけど、質や正確性が犠牲になったり、質や正確性は以前と変わらないけど、手間だけは二倍かかっているなんて結果に辿り付くかもしれません。

いずれにせよ、二つの言葉の意味の違いを考えるコトには意味があると思われます。先般紹介したやたらと細かい上司の至言を思い出します。曰く
手抜きは、楽ができるどころか、仕事を増やすことになると肝に銘じておけ。

表面上無駄に見えるけれど、絶対に「かけるべき手間」というのも中にはあるものです。表向きだけを捉えて、そういった大事な手間を省いた結果、仕事を増やすようなことのないように、重々気をつける必要があると私は思います。

そろそろ「知的生産」について語るの止めませんか?

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あちらこちらで「知的生産」という言葉を頻繁に目にします。ナレッジワーカーなる言葉がドラッカーによって作り出されてから、猫も杓子もどんな仕事も「ナレッジワーカー」という側面があり、「知的生産」に関与しているのだなどとも言われています。「知的生産」をキーワードにした書籍も多数刊行されています。いくつか読みましたが、発想法や整理法、表現法、ツールの使い方、文具の使い方、手帳の使い方、ノートやカードの使い方、効率的な情報収集のやり方・・・etc・・・な〜んてモノについてあれこれ言っているだけで、結局「知的生産って一体何なのさ!?」と個人的には思ってしまう書籍も少なくありません。「知的生産」という言葉を使うと何だか自分が賢くなったように思えるし、ちょっとデキる人みたいな感じがする不思議な言葉でもあります。

実際のところ、私には「知的生産」なるものが良く飲み込めていません。研究者の方が色々な情報を集め、分析し、論文としてまとめるということはイメージもできるし、理解もできるんですが、一般的なサラリーマンの仕事と知的生産というのがどうも素直に等式で結べないでいます。というより知的生産について考えるコトに意味があるのか?という素朴な疑問を持っています。

梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』では、知的生産というものを以下のように定義されておられます。

「知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがらー情報ーを、ひとにわかるかたちで提出することなのだ」

ベルトコンベアで流れてくる部品のネジを締めるという単純作業も、どうやったら少しでも早く楽にできるかを考えれば知的生産でしょうか?そのアイデアが他の人にもわかる形=マニュアルになったら知的生産ですか?仮にそのアイデアを基にした機械ができて、機械に自分の仕事を取られちゃったとしても、自らの知的生産の成果だと誇らしく思うべきなんでしょうか?営業するのも、図面を書くのも、どう宣伝したら売れるかを考えるのも、店頭で手にとってもらう方法を考えるのも、企画書を作るのも、報告書を書くのも、始末書を書くのも、み〜んな知的生産みたいです。

そもそも、頭を働かせてない仕事なんてあるんでしょうか?「知的生産じゃないものって何?」って思うんです。それこそホームレスさん達が空き缶拾っていますよね?一番効率良く楽に集められる方法を考えて、みんなに教えて実行してたらそれも知的生産ってことですよね?私が路上で拾ってきた雑誌を売っていたときにエロ本の表紙にジャンプの表紙を貼り付けたら売れるって思いついたのも知的生産ですか?「知的生産」じゃない仕事が無いのであれば、もう「知的生産」について考えたって、語ったって、意味無いジャンと思うわけです。

知的生産性を上げる為に云々かんぬんしているヒマがあるなら、あるいは、知的生産性はどうやったら上がるかと空想しているヒマがあるなら、その時間を目の前の仕事を成し遂げることに割り振った方が良くないか?と思うのです。もうそろそろ「知的生産」について御託を述べるのは止めにして、今、仕事がある人が考えるべきは、「目の前の仕事にいつもベストコンディションで取り組むにはどうしたら良いか」だけに収斂した方が余程、知的生産性が上がるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?


蛇足(あまりに面白かったので)
We know that,
1.Time is money.→Time = Money.
2.Knowledge is power.→Knowledge = Power
3.Power=workdone/time.

→Knowlege=workdone/Money

Money=Workdone/Knowledge...

Assume Workdone is constant....

→Money is inversely proportional to Knowledge

So beware....
Dont learn too much….

エディターシップという付加価値

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細々と自分勝手なことを書き綴っているこのブログですが、これでも一応、辞書に当たるべきは当たり、不明な点は事典等で調べてから書くように心がけています。

日々、多種多様な情報が飛び交っていますが、その情報の真偽を調べるというのはことのほか大変です。Wikipediaは便利ですが、100%正しいわけではないことは多くの人に頷いていただけるでしょう。ネットに溢れている情報は玉石混淆ですから、丸々そのまま受け入れるわけにもいきません。どうしても裏を取る、真偽を調べることに耐えうるだけの信頼できる参考図書が欠かせません。辞書、事典、便覧、年鑑、図録、白書、統計集、さらには教科書のようなものがやっぱり必要です。個人的には、これらの参考図書が必要だからこそ、やはりオフィスなり書斎なりが必要であり、所謂ノマドワークはいずれ無理が生じるのではないかと思っています。特に文筆のプロになればなるほど正確な情報をあたるべく「参考図書を引ける」技術の差は、そのまま文章の質の差になり、プロと素人の差として顕著になるだろうと思っています。それはともかく、何十人(モノによっては何百人?)もの人の手によって編集・校閲される「書籍」は現在も一番信頼のできるものだと私は信じています。平たく言うと、情報を深掘りしていくにあたって、TVやラジオやネットではなく、私は活字媒体に信頼を置いているということです。

しかし、この書籍に対する信頼を根底から揺るがしかねないような事態も間々見られます。さすがに辞書や事典にはないと思いますが、一般に売られている書籍の中には、明らかな間違いがそのまま掲載されていることがあるのです。それも私のような素人にでも突っ込めるような間違いがです。

具体例で見ていくことにしましょう。「知の巨人」と言って誰を思い浮かべるでしょうか?沢山いらっしゃいますが、立花隆氏はメディアでそのまま知の巨人と呼ばれていますから、立花氏のお名前が浮かんだ方も多いと思います。文系理系問わず博識で骨太なジャーナリストというイメージでしょうか。私も立花氏の仕事に、その勉強熱心さに驚嘆する一人です。猫ビルみたいに本に囲まれて生活してみたいものだと思います(無理ですけどね)いささか立花氏のファンの方には申し訳ありませんが、ちょっと引き合いにだせていただきます。立花氏の著作を何冊か読むと、ガチ文系の私が読んでもすぐ間違いだとわかる間違いがそのまま掲載されているのです。例えば、

・・・ガン遺伝子は、遺伝子が病気を起こしたようなものなのである。その原因としては、いわゆる発ガン物質の化学作用、放射能、確率的コピーミスなどが考えられるが十分わかっていない。(『21世紀 知の挑戦』)

間違い見つかりましたか?「放射能」ではなくて正しくは「放射線」です。「放射線」とは「電磁波や粒子線」のことで、「放射能」とは「放射線を出す性質(能力)」のことですから文脈からすると、放射線であるべきです。

量子力学への言及が極端に少なく、相対性理論びいきとも思える立花氏ですが、得意なはずの相対性理論もいささか怪しいのです。

つまり、相対性理論というのは、純粋な理論であって、現実的には検証不可能な理論ということになるのです。

と言った矢先に、

しかし実は、相対性理論は、全く検証されなかったわけではなくて、1919年に事実上の検証がなされているのです (両引用とも『脳を鍛える』)

と書かれています。これは誰が読んでもいただけません。「知の巨人」ではなくて「知の虚人」になってしまいます。検証されたのかされていないのかどっちなんでしょうね?もちろん「検証可能」が正しいのですが、これも甚だオカシナ言い回しでしょう?(ちなみに・・・この文章の前に相対性理論の説明-ウラシマ効果-の言及がありますが、この説明も間違いです)立花氏の著作はこういった間違いが沢山ありますから、間違い探しをするという意味合いでは確かに『脳を鍛える』ものではあります。特に「インターネット」「環境ホルモン」「遺伝子」「人工知能」などどちらかというと理系の分野は執筆当時との時代差を考慮して読んでも、思わず突っ込んでしまう間違いがわんさかあります。

しかし、これは笑っていられる事態ではありません。著者はともかく、編集の方々はちゃんと原稿を読み、裏を取っていたのでしょうか?やっていてもやっていなくても問題ですが、もし「「知の巨人」の言うことだから間違いないだろう」とそのまま書籍にしたのであれば、エディターシップが疑わしくなり、一体何を参考図書としたら良いのか、参考図書をチェックする参考図書が必要になり、もはや素人には「調べる」ことができないということにもなってきます。これは本当に怖いことだと思います。

特に『脳を鍛える』という書籍は「東大でおこなった講義をベースに大幅に改編し、かなり再構成されたうえで一冊にまとめた本」だと著者の説明として書かれています。講義録をそのまま載せたのであれば、口にする際にちょろっと言い間違うことはあるだろうと思えるわけですが、改編・再構成されたというのが気になります。何人もの手によるチェック機能があるはずの改編・再構成を行っていながら、何故このような素人にも突っ込める間違いがそのまま書籍になるのでしょう?ちなみにこの本、Amazonのレビューでは大絶賛されています。不思議です。

人のやることですから、間違いもあるでしょう。しかしネットで誰もが手軽にカンタンに情報を発信でき、e-Bookとして売ることすらも、やろうと思えばできるようになりつつある今、私は「信頼の置けるエディターシップ」こそが書籍の「付加価値」ではないかと考えています。レファレンスとして座右にある辞書や事典等までもが、編集・校閲を間引いて出版されるような事態にはなって欲しくないとつくづく思います。万が一にもそうなってしまったならば、それは即ち『知』の崩壊を意味するのかも知れません。

ストレスを上手に捌くコツー心の強さ≠硬さー

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スポーツニュースの解説では定番とも言える言い回しですが「精神的に強い・弱い」という言葉があります。オリンピックに出られるようなアスリートの精神が弱いとは、私にはとても思えないのですが、結果がふるわないと「精神的に弱い」と言われます。こう言われると、選手はきっともの凄く悔しいだろうなぁといつも思っています。もしくは、たまたまピンチヒッターで出た選手が2回連続でタイムリーヒットを打ったりすると「ここ一番という時に強い」と言われます。見えないところでもの凄い練習をしてきたはずなのに、たった一言で片付けられてしまうのです。素直に喜べないと思うんですよね。

この強い・弱いというのは、どうやらプレッシャーという「ストレス」に打ち勝れるか否かを意味しているようです。会社で仕事のプレッシャーに押し潰されそうになりながらも、懸命に戦っていらっしゃる方も多いと思います。しかし素朴な疑問なのですが、果たして「ストレス」は打ち勝つ必要のあるものなのでしょうか?もしくは違った対応方法があるのでしょうか?

ストレス度合いには点数表があることをご存じでしょうか?有名どころですとアメリカのホームズ&レイによる「社会的再適応評価尺度表」というモノがあります。この基準によると、

  • 配偶者の死 ストレス度100%
  • 家族の死 ストレス度63%
  • 結婚 ストレス度50%
  • 失業 ストレス度47%
  • 退職 ストレス度45%
  • 友人の死 ストレス度37%
  • 借金やローンの抵当流れ ストレス度30%

などとなっています。どうでしょう?納得の行く数値でしたか?納得いこうといくまいと、医療現場では指針のひとつとして使われているようです。

しかし、このようにストレスを数値化することは、診察の目安としては役立つのでしょうが、それ以外には全く使えないものだと私は思っています。配偶者の死を例に考えると、夫婦二人三脚でいつも仲良く連れ添ってきたパートナーが死んでしまったら残された方のストレスはとても大きいものでしょう。しかし何十年も家庭内別居状態でパートナーが死んだとしても、先の人と同じストレス具合でしょうか?結構あっさりしたものかもしれませんよね。

また、自分が心底苦しく辛くふさぎ込んでいるときに、周囲の人から「ゴミ山で働く子どものことを考えてみろよ。それに比べたら幸せだろ?」とか、「生きているんだから、シッカリ生き抜かなきゃダメだ!」などと言われたらどう感じるでしょうか?結局、自分が辛かったら辛いのです。こう言われてもむしろ周囲に理解されないということが辛さに拍車をかける可能性があるだけですから、全く意味無しです。

ストレスの感じ方は、結局のところとっても主観的なものです。先の指標のような数字で説明されても、不幸の度合いを相対化されても、意味がないと思うのです。誰にとっても同じだけのストレスがかかることなんてものはありえないことですし、ストレスを溜めておける器の大きさも、お猪口サイズの人もいれば、ドラム缶サイズの人もいるわけで、個人差は非常に大きなものがあるはずです。

最近の雑誌やテレビではストレスはあって当たり前で、そのストレスには「打ち勝たねばならない」という論調が幅を利かせているように感じます。冒頭のスポーツニュースの言い回しなどは正にその一例でしょう。しかし別にいつも打ち勝つ必要があるものでもないと私は思っています。心の強さは硬さと同義ではないと思うのです。いつも剛の拳で突き進むのではなく、躱したり、流したり、しなやかに対応できる柔の拳で臨む方が良いと私は思っています。(北斗の拳のラオウとトキの違いみたいな感じですね)何故なら、剛の拳一辺倒では、自分の心がポキッと折れるのが先か、ストレスを粉砕できるのが先かの二択になります。私たちは常に様々なストレスにさらされていますから、確率的には心が折れる方が高いだろうと思うからです。

もし今、押し潰されそうなストレスを感じていて、どうやって「打ち勝とうか」と考えているようでしたら、少し発想の転換をしてみてはいかがでしょう。いつも打ち勝たねばならないと思うと余計に苦しくなります。何とか躱せないか?何とか避けられないか?まとめてではなくて、ちょっとずつ打ち返すことはできないか?そんな風にちょっと角度を変えて見ることが、ストレスを上手に捌けるようになるコツのひとつなのではないかと私は思います。

内容よりAPPに感動!『もしドラ』アプリに未来を見た!

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前々から激しく気になっていたのです。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』という書籍は。

しかし・・・いかんせん、装丁が装丁が・・・「これください」ってレジに持って行ったら、周りのお姉さんやレジのお姉さんに「ぷぷっ」ってされちゃうようなこの装丁はいただけない!!一応真面目なサラリーメンという表の顔を持つ身としては、そんなプレイを楽しむわけには(ん?何か違うような)・・・ということで手に取らずにいたのです。Amazonはって?Amazonで買ったら、それこそTopページが一面アニメキャラに埋め尽くされそうでしょ!?それを会社で開いてしまったらと考えるとリスク高すぎます。と、勝手に曰く付きの本としていた、『もしドラ』ですがiPhoneアプリになっていて、それも800円と書籍より安い!これなら羞恥プレイをせずに済むし、オススメ品がエライことにはならない!ということで早速購入して、先ほど一気に読み終えました。

もう内容はタイトルそのまんま「JK meets Drucker!!」ということで、ドラッガーの名著『マネジメント』を弱小野球部に応用、適用して甲子園目指して成長していく青春感動物語。「ドラッガー?はぁ?何それ?ラリってる人?」という甚だしい勘違いを素でしてくれちゃうような人にも、軽く読めるように随所に工夫が見られます。ハルヒとタッチを足して2.5で割ったような感じとでもいいましょうかね。感想としては・・・良書だろうなぁ。JKとDruckerをカクテルするなんて大変な作業をよくぞ成し遂げた!と思います。勿論大人が読んだら、十分勉強になります。というか幾つも思い当たる節があって時折考え込んでしまいました(^^;)

そんな感動青春無理矢理ビジネス小説の内容はどうでも良いのです(<良くないけど)そんなことより、このアプリが異常に読みやすいということに私は感動しました!!

画面が小さいから読みにくい?ノンノン!絶対コッチの方が読みやすい!これ「今後の電子書籍はみんなこうなっていくんじゃね?」と思わせるくらい秀逸な出来です。まだ『もしドラ』を読まれていなくて、iPhoneを持っている方は断然コチラをオススメします!






 感動しません?この動き!
 紙の裏写りまで再現!
 タップするだけでめくれます。













どの頁からでも
目次としおりと設定に
アクセスできます。














 目次はこんな。










 フォントサイズ、行数
背景の色とかも変更できる!














goo辞書や大辞林で、
単語を調べられます!
(この本には不要だろうけど)








決して、Discover 21さんや理想書店さんのアプリも悪いわけではないのですが、それでも正直コチラの方が読みやすいし使いやすい。他の電子書籍もこういう読みやすさの工夫を凝らしたものが増えてくるのかなぁというのが正直な感想です。電子書籍の可能性を感じる一冊でした。

シンプルライフと殺風景の境界線

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一昨日の名古屋遠征の際、ビジネスホテルに一泊しました。ホテルの部屋はまさにシンプルライフの王道といえる空間かもしれません。ベッド、ライティングデスクとチェア、TV、小さい冷蔵庫、ユニットバス、照明、鏡、カーテン、以上!という感じで、一切の無駄がありません。お金が沢山あったらどんな家を買う?という話しになると、いつも義母は「ホテル住まいをする」と答えます。理由は食事は作らなくて良いし、洗濯もお願いできるし、家事の一切をしなくて済むからだと言います。なるほど確かにホテルにずっと暮らすことができたらこれ以上身軽なライフスタイルもないのかもしれません。

少々話しは逸れますが、『THIS IS IT』のDVD特典映像の中で、公演を50回に増やすオファーをした時のエピソードが紹介されています。Michael Jacksonは2つの条件を出したそうです。ひとつは「ギネスに申請して欲しい」ということ、もうひとつは「家族と過ごせる家を確保して欲しい」ということです。この条件は私にとってはとても意外な条件に思えました。MJほどの人になれば、食事から洗濯まで身の回りのことは全て、その専門の人がやってくれるでしょうし、ホテルであれば最上階の超ゴージャスなお部屋でしょうし、当然プライバシーは守られ、セキュリティも最高レベル。寝具から調度品、アメニティに至るまで全て洗練された無駄のない空間に身を置くことができたはずです。しかしMJはホテル暮らしを嫌い、「家」を要求したというのは少々違和感を覚えずにはいられませんでした。

今回私が泊まった部屋は極々普通のシンプルな部屋でした。キチンと清掃が行き届いていて清潔でしたし、色合いもシックに纏められていて結構良い感じでした。しかし始めはどこか余所余所しく、何というか私を歓待してくれているようには思えず、どうにも落ち着けなかったのですが、部屋に荷物を置き、ジャケットを壁にかけたところで漸く部屋が私に馴染んだ印象を受けました。着慣れた愛用のジャケットを壁にかけて、それを見て初めてホッとできた自分を発見したのです。これは何だ?としばし考え込みました。

生活に必要な最低限のモノしか所有せず、シンプルに生きる。身軽で清潔で潔いとても素晴らしいライフスタイルだと私も思います。ヘンリー・D・ソローも「シンプル」に関しては、このような言葉を残しています。

 
シンプルに、シンプルに、生きよう。すべきことは百や千ではなく、二つか三つでいいのだ。


僕は確信している。もし人がすべて僕のようにシンプルに暮らせば、盗みや強盗なんて耳にしなくなるに違いない。そういった犯罪は、必要以上に所有する人が一方で、十分にものをもたない人がいる社会でのみ起こるのだ。

しかし、今回私が気づいたのは、必要最低限しかモノが無い生活では「心」は安らげないのではないかということでした。モノを沢山持っていることが=豊かであるとは私も全く思いませんが、どうやらモノを単に減らせば万事解決といくようなそれこそシンプルな問題でもなさそうです。でなければ極限にシンプルなホテルの空間で最初から存分に寛げなければオカシイでしょう?

私が思うに、必要最低限のモノしか所有しない生活とは「殺風景」と紙一重と言えそうです。そして殺風景の「殺」という字の相手は、私たちの心なのではないかと思います。故に、必要最低限+毎日愛でることができるだけの愛着品を持つこと。これが一般人にできる一番シンプルな生き方と言うことになるのではないかと思います。愛用品みたいなものがあるだけで、まるでそれがお守りのようにもなり、その場を自分の居場所だと特定してくれるような気がします。今回の私のジャケットがそうであったようにです。そんな生活必需品ではないけれど、大切にしているモノが全くなければ、心が寛げるだけの空間にはならないのかもしれません。どんなに楽しい旅から帰ってきても「やっぱり家が一番だ」というのは、家にあるモノたちが心をマッサージしてくれているのかもしれないなと思いました。

ちなみに・・・ソローはこんな言葉を残しています。が、私はどうやら前者のようです(^^;) たとえ前者であっても少しでも後者に近づけるよう研鑽していく道程こそがその人のライフスタイルであり、そのゴールのひとつがシンプルライフなのかもしれませんね。

粗野な人がシンプルに暮らすのは、無知と戯れているか、または怠惰によるものだ。しかし、物事を深く考える人がシンプルに生活するのは、そこで得られる知恵によるものである。

ちなみに・・・写真は「森の家」でソローが使っていたデスクのレプリカだそうです。あんなに多くの著作を残した人の机とはちょっと思えないくらい小さく、部屋もシンプルそのものです。これぞ知恵ある人の成せるシンプルライフなのでしょう。

分業化という退化

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東京駅を降り丸の内中央口を出ると、目の前には新丸ビルがそびえ立っています。1999年に旧丸ビルが取り壊され、2002年に新たに立て直されたものです。

解体当時、旧丸ビルには数社顧客が入っており、仮移転から、できあがってからの戻しの作業などの仕事をいくつか手伝わせていただきました。その仮移転を進めている際、興味深い話しを聞いたことがあります。

この「丸の内ビルヂング」は1923年、日本人初の英国公認建築士である、桜井小太郎氏の設計で、アメリカの会社と三菱が合弁で建てられました。地上8階地下1階の昭和戦前期最大のビルでもあり、当時は「東洋一のビル」と言われた、名建築物です。「舶来」「ハイカラ」「重厚」「荘厳」「モダン」そんな単語がイメージされるビル。柱に使われた石にはアンモナイトが埋まっていたりもしましたので、そういう意味では知的好奇心もかきたてるようなビルでもありました。(これは今も保存されているようです)

私は、仕事上、その奥の奥まで入ることが出来たのですが、その作りは実に見事なものでした。裏方の部分にも妥協がないというのが素人目にもわかる作りです。勿論配線などは時代の進化に無理やり合わせたことがバレバレの酷いことになっていましたが、建築そのものは美麗で頑強なものでした。当時仕事で手伝わせていただいていたお客様からは、「知ってる?丸ビルのドアノブは世界一頑丈なんだよ。これだけ経っているのにガタひとつないんだよ」と言われました。他のビル、所謂”木が3つ”の貸しビルなんかですと、数年でがたついたりしますので、コレは驚異的なことです。ノブはアメリカの会社のものだとのことでした。

また、地下配電盤の確認をしていた際には、「こういう建築物は今ではもう出来ないって知っているか?」と職人さんに言われました。材料とかの問題なのかと思いきや、さにあらず「当時このビルを造った職人の多くは会社に属していた人ではなく、腕一本で食っていた人たちだったらしい。要は作ろうと思えば何でも一人で作れる人たちが集まったわけだ。ひとりでそれだけの高度な技術を持っている職人が、もういないんだよ」と言われました。

突っ込んで聞くと、真実か否かはわかりませんが、皆大きい建築会社から合理化を求められ、仕事は徹底的に分業化し、オールラウンダーというような人はどんどん少なくなってしまったとのことでした。今のこのご時世で、オールラウンダーが良いのか、スペシャリストが良いのか、一言では断じられませんが、恐らく当時の職人さんは徹底的に現場主義で、基礎から装飾、竣工まで全てをこなせる技術と現場で磨かれた確かな腕を持っていたのでしょう。

合理化・分業化は現代社会を牽引してきた重要なワークスタイルだったのかもしれませんが、それ故退化してしまった、亡びてしまった技術やワークスタイルがあるのかもしれません。

ちなみに・・・現在の新丸ビルは低層部分をわざわざ旧丸ビル風に仕立てあげていますが、どうにも違和感が拭えません。かといって、現代最先端の大規模高層建築に美を感じるかというと全然そんなことはないのですが。もう用途に忠実に無駄なく作られ環境に調和した、旧丸ビルのような圧倒的な美しい建築物は造れないのかも知れません。

雑感-スーパーニッチe-雑誌の可能性

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今日、家内の洋服を買いにデパートへ行っていました。これが…果てしなく長いんです。毎回毎回。

そこで今日に備えて、前々から「欲しいもののイメージとか、質感とかを、雑誌やネットでチェックしてその切り抜きを持って買い物に行こう」と提案していまして、家内も了承し、あれこれ研究に励んでいたのです。ですから、期待していたわけですよ。サクっと買い物を終えて、家に帰ってこれるだろうと。

しかし・・・デパートの端から端まで1フロアー2往復するのは基本。複数のデパートを何回か往復するのも同じ。要は今回もいつもと全く同じなのです_| ̄|○ ナンデ?ナンデ?と思って「事前調査はどうなってるの?」と聞いたところとても意外な答えが返ってきました。

家内曰く。「だ〜って、”雑誌は参考にならない”って確信しちゃったんだもん。最初はこの記事みたいなジャケットを探して、似たようなのを試着したけど似合わなかったでしょ?だから、私は確信したわけ。雑誌に載っている洋服は、モデルさんが着ているから素敵なの。私が着たら違うモノになっちゃうの。だから地道にローラー作戦で探すしかないの」

ウチの家内ですが・・・身長は152cmと小さく、横幅には矢口真里さんをもう少しふくよかにしたような体型なので、確かに雑誌のモデルさんとは誰が見ても間違いようの無いくらい、全く違います。そして、家内のような「身長の低い人向けの雑誌は無いのだ」と言うのです。

Googleで色々検索しても、知りたい情報である「家内自身が着たらどうなるのか、どう見えるのか」というのはわからなかったのだそうです。

妙に納得してしまったので、諦めて家内の地道なローラー作戦につき合いテクテクテクテク歩きながら個人レベルで作る、e-Bookの可能性に思いを馳せていました。

例えばウチの家内に色んな洋服を着せて写真を取り、クビから上は無い状態の写真がダーッと並んでいる雑誌を作る。読者は自分のクビから上の写真を撮って、クビ無し写真雑誌に、自分の顔を重ねていくことで、同じ身長152cmの自分が着たらこんな感じになるというイメージが掴めるニッチな雑誌が作れるんじゃないか。とか、ウエストサイズ別、ヒップサイズ別なんて切り口で、流行のスカートを着たらどういうシルエットになるかとか、スーパーニッチな"e-雑誌"を個人レベルで作れたら、そういう雑誌を欲しいという人はいるんじゃないかな?と思ったりしました。

男性でも同じような情報を必要としているかもしれませんね。身長別、ウエスト別「ユニクロ+無印良品で勝負服をコーディネート」とか、「ラペル幅やゴージラインの違い」等を実際自分の顔を合わせて、どういう印象になるか確かめられるものなどを作ったら意外にウケるかもしれません(^^;)

12,000歩以上歩き、徐々にしかし確実に増えていく荷物を黙々と持ち続けながら、ブログではちょっと難しいけれど、雑誌には出来ていること。そんなことを個人レベルでちょっとデザインして体裁整えるだけで作れて、iPadで見られるような世界が来たら、普通の雑誌ではカバーしきれない、スーパーニッチだけど、「それ待ってた!」という日常に密接した情報っていっぱいあるかもしれないなぁと思いつつ、でも洋服はコーディネートアプリみたいのがあれば良いのかなぁ等、最後の方は朦朧とした意識で考えていました。

取り急ぎ、どなたか152cmの女性向けの洋服雑誌を作って下さい。ホント疲れた・・・。

ユビキタス・キャプチャーの肝は記述法にあり!

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昨日、「Evernote日本語解説書二冊同時発売イベント『象が踏んでも忘れない』」に参加してきました。イベントの模様は、USTREAMでダダ漏れ動画がコチラでご覧いただけます。いや、スゴイ世の中ですね!

色々な方が、様々なメディアで昨日のことを記事にされておりますので、詳細は割愛します。しかし今回、痛感したのは・・・英語は話せないと駄目だ・・・ってこと!聞き取れるんですけど、話せないと伝えられないですからねぇ・・・まずは英文法MindMap早く完成させねば!(予定を大幅に超過中・・・orz)

さて、今回のイベントで個人的に大収穫がありました!@mehoriさん、@nokibaさん、@shigotanoさんのお三方のプレゼンの中でピン!ときた言葉があったのです。それは、@nokibaさんの「記憶とは、覚えて、覚えておいて、思い出すこと」という言葉です。Ustの動画だと、56分あたりですね。

2009年10月16日の私のUCメモに「『iPhone情報整理術』のP132の図、この図以外にも記憶に関わる大切な要素がある感じがする。その要素について記述できれば、UCの意味が増す気がする」と書いてあります。それが何なのかず~っと考え続けていたのですが、それが何かとわかったこと、そしてUCを続ける記述法のコツが漸く掴めました。

まず私が探していた要素。それは「香り」でした。

香りも思い出すキッカケを与えてくれる重要な要素だということです。
例えば、サルバドール ダリのラグーナという香水があります。鼻の形をした青いビンに入った香水です。私はこの香りを嗅ぐと、高校時代に付き合っていた女性の姿が浮かびます。他にも、ネスカフェのインスタントコーヒーの香りで祖父を思い出したり、セブンスターの香りで新卒時代に指導してくれた先輩を思い出したり・・・といった具合です。

実体験として、先日、街角ですれ違った女性の残り香がラグーナと似た香りだったのですが、たったそれだけで、私は瞬時に当時付き合っていた女性の姿を思い出しました。この経験を@nokibaさんの言葉と照らし合わせると、私はラグーナの香りを「覚えて、覚えておいている」ここまではOKです。

けれども、先日はたまたま香りに出会えましたが、どこにどうやって香りの記憶を残せば良いのでしょうか?香りを言語化することは非常に難しいことです。しかも残念ながらEVERNOTEに香りはUPできませんし、「香りを保存再生できるメディア」は今のところありません。しかし、よく考えた結果、これはメモの取り方を工夫すれば解決できるのではないか。そしてその書き方こそがUCの肝なのではないかと思いました。

「香り」を思い出せるようなメモの取り方の例として、歌の歌詞が思いつきました。例えば松田聖子さんの「赤いスイートピー」では「♪タバコの匂いのシャツに そっと寄りそうから」と香りを印象的に使っています。

「タバコの匂いのシャツ」この一文で、相手がどんな男性で、どんな匂いでどんなシャツだったのか、聴いた人は、各々具体的なイメージを思い浮かべることができるでしょう?

つまり、UCの記述法の肝は「書き付けた言葉で具体的な映像を想起できる」ように書くことで、そのような記述を残しておければ、その場の情景、香り、質感等も思い出すことができると思ったわけです。

我が家で言えば、そうですね・・・愛犬の肉球の匂いww。私は「干草の匂い」と言い、家内は「お日様の匂い」と言います。言葉は違えど、そう遠くない将来、愛犬が旅立ってしまった後でも、その匂いを例えた言葉が残っていれば、その匂い、その温もり、肉球のぷにぷに具合を思い出すことができるでしょう。(実際に干し草の匂いを嗅いでも、きっと思い出せるでしょう)
さらに、その言葉を愛犬の肉球の写真に添えて、ついでに吠え声の音声も一緒にEVERNOTEに入れておけば、EVERNOTEは本当の意味で「思い出保管装置」・「人生の足跡」・「第2の脳」・「外部記憶装置」と成長するのではないかと思います。

歌の歌詞は色々な映像を私たちに想起させますからメモの取り方の良いお手本です。ちょっと数曲ご自分の好きな曲の歌詞に耳を傾け、思い出した映像をメモしてみてください。どういう風に書けば「思い出せるメモ」になるかのコツみたいなものがつかめると思いますよ!

蛇足:中島みゆきさんの「うらみ・ます」という曲は、学生時代に中島みゆきさんが付き合っていた男性との交際が終わった直後に書かれた曲で、実体験なのだそうです。この曲を聴くたびに震え上がっている男性が1名いるわけですねぇ・・・メモの残し方も良し悪しですね(笑)

我流マインドハック-鬱という足枷を断ち切る最後のひと振り-

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先般、プチマインドハック!落ち込んだ時には"バネ思考"!という記事を書きました。記事のコメント欄でShinyaさんより、「ドッカーンと上がったあと、そのままドーンと疲れるケースがあるからお互い気をつけましょうね」という暖かいコメントをいただだきました。ありがとうございます。そこで今回は、2回目の復職から1年4ヶ月が経ち、若干不安定ながらも、今もちゃんと働き続けられている間に見つけた、どっかーんと上がった後、どーんと落ちない為のマインドハックを扱います。

私は医師ではありませんし、学術的な裏付けはありません。ご注意ください!

とはいっても、非常に単純な話しなんですが・・・どっかーんと上がった後は「病気のことを考えない」これだけです。
いやいや、気が触れたわけではありません。本気で言っています。

この病気のタチの悪さはずーっとこのブログで書き続けている通りです。しかし「病 は気から」という有名な言葉がありますよね。この言葉は本当か?と疑ったことはありませんか?今なら実験できると思ったので、「実際に病気だと診断されている」状態でも、気持ちでは病気ではないと反抗し続けていたら良くなるのか?という実験を私の視点からのメモ、家内にもメモをお願いし、どう推移するのか観察していました。あくまで個人的な視点(+家内の多少客観的な視点)に基づきますが、お互いのメモを付け合わせると「病は気から」はどうやらそれなりに本当のようです。気分の浮き沈みが私のメモと家内のメモが一致したこと、その日何が起こったかを振り返ると、良いことがあった日は概ね上々。キツイ仕事があっても病気と思わなければ踏ん張れる。駄目なときは殆どが「病気だから」と一回でも思ってしまった日でした。つまり「私は鬱病だ」と思わなければ、意外に何とか踏みとどまれるのです!

では、なぜ気分が普通の人の水準まで上がった後、そこから落ちてしまうことがあるのか?2回目の休職前の日記を見ていて、ひとつの傾向に気づきました。どうやら、仕事を任された時、面識のない人に会わなければならないとき等々、「鬱病であることを避ける口実に使っている」傾向があるようなのです。つまり「仕事を任されるのは嬉しい、”でも”自分は鬱病だから・・・」とか「会わなきゃいけないのはわかる”けど”、鬱病だから・・・」と考えている節があるのです。

ですから、どっかーんと上がった後、もう「鬱だ」とは考えず、多少具合が悪い程度だったら"風邪だと決めつける"、お腹が痛ければ"市販の胃薬で治る"と信じる、頭痛が酷ければ"バファリンで治る"と信じるetc・・・、鬱を水戸黄門の印籠のように使えないようにするというのが私が見つけ出した再度墜落しないための我流Hackです。

普通の人だってお腹が痛かったり、頭痛がしたり、少し熱っぽかったりくらいはあって当然。それなのに「鬱」という印籠を持ち出すことで、過剰な理由付けを行い、自分に不利な状況を回避する”逃げ口上”に使ってしまうことが続くと、本当に墜落して、また鬱になるのではないかと私は考えています。

どっかーんと上がったら、今まで無理だった「楽天的に考える」ことが多少はできるはずです。多少の体調不良、多少の困難、不安なのは痛いほど良く分かりますが、「鬱」を持ち出すのは止めてみることを提案します。「ちょっと頭痛いけど、痛み止め飲んだから大丈夫!今の俺(私)ならできる!」「復帰早々難しい仕事だけど・・・今の俺(私)ならできる!」と根拠はなくても良いからポジティブに考えるクセを付けちゃいましょう。いつもはポジティブシンキングに懐疑的な立場の私ですが、再度鬱に落ちない為に使えると思うので、今回ばかりはポジティブシンキングを支持します!いっそのこと極端に「今は動けるんだから、いっちょ俺の(私の)スゴサを見せつけてやろうじゃないか!」くらいの考え方でも良いのかもしれません。

実際に行うとなると、シンドイことは百も承知ですが、鬱病という足枷を断ち切る斧の最後のひと振りは、こうした「根拠がないくらいポジティブな考え方」、「その考え方を持ち続ける習慣」なのかもしれないと私は思っています。まだ私も闘病中です。寛解には至っていません。気持ちの上下もまだまだあります。特にクスリが切れると覿面です。しかし、少なくとも仕事に「鬱」を持ち込むのは止めるように心がけ、足枷を断ち切る最後のひと振りの時の為に、斧の刃を研いでいるんだと思うようにしています!!

怒りの本質を知れば百戦危うからず!

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昨晩、ライフハック心理学主宰の佐々木正悟さん(@nokiba さん)のセミナーに参加してきました。今回のテーマは「怒りと喜びのコミュニケーション心理学」。鬱病後、とにかく人付き合いが苦手になってしまったこと、仕事をしていく、生きていく以上、他人と接しない生き方はあり得ませんので、「人は何故怒るのか?」「怒れない場合はどうなるのか」を知っておく必要があると思い、参加してきました。

まず、私は怒りをどう表現するかということを書いておくと、普段、会社で怒るということはほぼありません。基本的にはあまりにも会社のルールを逸脱した行為に対しては、役職の上下関係なく、感情的にではなく、論理的に間違っていることを指摘することはあります。大抵はここで問題は打開できるのですが、これに懲りず何回も同じ間違いをしてこちらが迷惑を被った場合のみ、「全力で相手を潰しにかかります」つまり一回私が本気で怒ると歯止めがかからないことは、本人も承知なので、なるべく怒らないように心がけてはいます。家庭内では、怒る時が無いと言えば嘘になりますが、さすがに家内を潰すようなことはないのでww 今のところ致命傷には至っていません。家内がどう思っているのかはわかりませんが(^^;)

まず意外だったのは「怒り」とは同種間でのみ起こる、"コミュニケーション機能"であると言う点。何かを相手に伝えて、結果を得るのがコミュニケーションですから、怒りを相手にぶつけて、結果を得るというのは立派なコミュニケーションだというわけです。言われてなるほどと思いました。コミュニケーションであれば、喧嘩をして仲良くなるというケースはあるのも納得です。
また人には固有の「自分中心のルール」があるということ。私はこれは剣術でいうところの"間合い"に相当するとイメージしました。この剣の間合いという結界に対し、外部から何らかの刺激が加わる、すると自分ルール=結界に衝撃波が走る。この刺激は故意か否かを判断した上で、結界に波紋を及ぼした相手に対し、態度を選ばねばならないわけです。

卑近な例で言うと、電車で足を踏まれた。これが故意だったら「おい!こら!」となるでしょうし、満員電車でしょうがなさそうなら我慢するでしょうし、相手がヤクザ屋さんみたいだったら黙るでしょうww。そういうわけで、選べる態度は約3つ。

  1. 対象を攻撃する。
  2. 自分ルールの方を変えてかわす。
  3. ルールを変えず対象を無視することですり抜ける。

1はわかりやすい。故意に間合いに入ってきから反撃するだけです。先の例では「こら!」ってヤツですね。
2は、斬り付けられてもなお、自分の位置を変えて躱すイメージ。先の例では「満員だから」と我慢する。
3は、間合いに入っていて何をされようと、無視を決め込む。先の例では「ヤバそうだから」無視。


しかし、2と3は確実にこちらが傷を負います。その傷が溜まりに溜まって、外に向けて爆発する場合もあれば、「置き換え」という心理用語があるそうで、例えばより弱者である子供を蹴飛ばすなどの怒りのすり替えに走ることもあるとのこと。さらには内に怒りが沈殿した結果、最後には自分ルールが何も通らないことに自分がキレてしまい、俗に言う頭が真っ白という状態になるということです。

さて、私です。通常は3なんだと思うんです。傷は最小限に抑えますが、怒っている人と正面から激突しても、しょうがないと思うので、適当に相づちを打って、無視を決め込みます。ただし「無視」をするということは反応がないワケですから、余計相手の怒りの火に油を注ぐことになることがあるのが難点です。私は「もーツンデレなんだからぁ」と思うようにしています(元ネタは@mehoriさんから教わりました(笑))

しかし余程こちらに非がない限り2の自分のルールを変えるというのは止めるようにしています。何故かと言えば、それは結局、自分の内に割り切れないものがくすぶり続けるから。病気になるまで八方美人と揶揄されるまでに良い人を演じていましたが、これは常に2をとり続けていたからだと思うのです。私は、良い人を止めたことにより、楽になれましたから、余程メンタルに自信のあるタフな人でない限り、2はオススメしません。ヘタすれば鬱まっしぐらになる可能性が高いと思います。

では、1はどうなのか?個人的には理があれば1も止むなしと思います。というよりも適度に1の態度を選んでいないと、自分が持たないと思うのです。程度の問題は有ると思います。私みたいに「全力で潰しにかかる」というのはやり過ぎでしょう(反省・・・)あくまでも自分の死守すべき点(これは他人からみたらくだらないことかもしれませんし、現実のルールとは関係なしかもしれません)が侵害されたら、ちゃんと怒るべきだろうと思います。対象を適切にほどよく怒ることがポイントです。過剰でも弱すぎても行けないということですが、これは難しいテクニックですね。

では適度に怒る為にはどうすればよいのか?それは、怒る前に「怒るほどのことか?」と問うこと。目的は状況の打開ですから、「怒ることによって状況が打開できるイメージがもてれば」怒って良いのだと思います。

いつも怒りまくるのも、いつも黙りこくってしまうのも少々病的です。相手の心の間合い=相手の自分ルールを見つけて、何故怒っているのかを把握できれば適切に怒るポイントが見つかるとのことでした。

全体を通しての感想としては、怒りについて知ることは相手を知ることに通じるのではないかと思いました。何故怒られているのに、反応せず黙りこくってしまう人がいるのか?何でこんな些細なことでキレるのか?何故これだけ言っているのにヘラヘラしていられるのか?結構日常で他人の仕草に違和感を覚えることはあると思いますが、それらはその人が怒りをどう表現しているのかの違いだけなのだろうと思いました。特殊で強固な自分ルールを持っている人もいるそうですが、それも、日頃から良く相手を観察していれば、いざというとき適切な対処が取れると思います。

必要なのは我慢する忍耐力ではなく、己を知り、相手を知ることによって、円滑で上手なコミュニケーションを取ることだと思います。対人関係のストレスほど強いストレスは無いと思いますので、無駄に怒る必要はないですが、「ほどほどに怒っておく」ことが結局は、自分のガス抜きにもなり、心の平穏を守る為にも必要なことなのだろうと思います。

最後に、@oilshopさんの事例発表があったのですが、「コミュニケーションは練習で上達する」という一言はとても心強く思いました。少しコミュニケーションに関する書籍を読んでみよう、練習してみようと思いました。

※Lifehacking.jp 主催の【ライフハックブログ賞】の投票が、あと2日、24日(水)の23:59まで延長されました!掟破りのルール変更(笑)こういうことをサラッとやってのけるから、@mehori さんってスキさ(^^)/
詳細は ライフハックブログ 賞、あと48時間延長。あと告知と告知! にて!
これまでは一度に投票できるブログの数が3つまでだったのが、7つまでに増えています。
ノミネートされているブログ巡りを楽しむと共に、是非、本ブログへの応援票もポチっと!宜しくお願いいたします!!

鬱病キャリアによる「職場のうつに関する誤解と偏見」考察

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ガジェット好きでギークな産業医・医師・医学博士の難波克行さん(@electricdoc) さんが主催する『ELECTRIC DOC』というブログがあります。
このブログ、産業医という立場から、鬱病を始めとして、様々な病気を抱えた人が社会復帰する為のノウハウ等を詳細に書いてくれている非常に参考になるブログです。

本日のエントリーは「職場のうつに関する10の誤解と偏見(後編)」ということで、職場復帰してきた鬱病社員に対してどう接すればよいのかアドバイスされています。非常に興味深いエントリーですが、ちっとだけ鬱病キャリア側の私見を追記させていただきたいと思いました。

誤解6:うつ病を治してから働くべきだ
 うつ病の治療は「自宅療養」と「職場復帰」の2つの段階に分かれています。まず、自宅療養で「何とか出社して最低限の仕事をこなせるレベル」まで回復します。次に、職場復帰してから「通常の仕事がこなせるレベル」へと少しずつ回復していきます。

職場復帰したら即時、通常の仕事がこなせるレベルに復活しているとは私も思えません。私の場合は、2回目の復帰のときは、9時~15時までの変則勤務時間体制を1ヶ月取ってもらいました。こうした助走期間を設けてくれる理解ある会社でしたら正々堂々甘えましょう。仕事ができるようになったら、コツコツ返済していけばよいのですから!仕事をこなすことより、職場環境、毎日出勤することに適応することの方を最初の2週間は最優先するくらいで丁度良いと思います。
誤解7:うつ病の人は仕事ができない
 うつ病になると、体力や集中力など「仕事力」が一時的に低下します。順調に回復すれば、半年ほどで「以前と同じように仕事ができるレベル」になります。しかし、それまでの間は、無理をすると病気が再発するおそれがあるため、一時的に業務負荷を軽減して対応します。

助走期間を終えて、通常勤務になった時には本当に身体が付いていきませんでした。帰り着くとベッドへ倒れこむ、まさにバタンキューという状態です。この時期の注意点として、休日を大切にすること。休日遊びに行くのも体力が要ります。普通の体力が身につくまで、自重して、土日はひたすら平日の為にエネルギーチャージに勤めるほうが無難です。しかしそれが「仕事力の低下」に繋がるかといえば私はちょっと疑問に思います。1年や2年で、仕事の基礎能力は低下しないと私は思います。本人が「ここまでできるはず」と思ったものと、実際に「できた量」とのギャップはあると思いますが、概ね普通の人と同等の働きができているはずです。「まだできない」と、あまり決め付けないで欲しいなぁと思います。特に、体力は兎も角、集中力は十分人並みにあると思います。
誤解8:うつ病の人には仕事を任せられない
 職場復帰直後は、体調に波があったり、作業に時間がかかったり、正確さに欠けたりします。それらはうつ病の症状です。半年ほどすれば以前の状態に回復していきます。ただし回復が遅れるケースもあります。

これは完全に誤解だと私は思います。体調の波はあるでしょうが、風邪を引いたら正確性にムラが出るのと同じ程度で、鬱だから作業の正確性や作業の質に影響が及ぶとは思いません。むしろ迷惑分を早く返済しようと過剰にこなしてしまうことこそ問題です。仕事は任せた方が、本人は嬉しいですし、やりがいも出てきます。但し、常軌を逸したスピードで処理するようであれば、静止してあげる助けが必要だと思います。
誤解9:うつ病の人はなまけものだ
 うつ病の背景にはいろいろな要因があります。熱心にバリバリ仕事をする人も、それなりの人も、どちらもうつ病になる可能性があります。また、職場復帰後は一時的に仕事力が低下しており、再発防止のために業務負荷を軽減する必要があります。

これは典型的な誤解ではないかと思います。私が知り合った鬱病の人は「真面目」な人が殆どでした。「仕事前は怠けてたんだけどさぁ」なんて言う人は一人もいません。むしろ怠けられるなら鬱にはならないと私は思っていますし、怠けることが苦痛に感じる人がなりやすいのではないかと私は思っています。仮に一時的に仕事力が低下していたとしても、新入社員よりは使える程度には、人並みには仕事を怠けることなく、キッチリできると思います。何しろ根は真面目な人なのですから。

誤解10:やさしい言葉で接しなければならない
 職場復帰から数ヶ月間は、疲れやすかったりストレスを感じやすかったりします。だからといって、接触を避けたり、過保護になったりする必要はありません。「大変な病気を経験し、不安を抱えながらも、職場復帰をがんばっている同僚」に対して、普段どおりに接すればOKです。ただし、ぶっきらぼうな口調やきつい言い方はストレスに感じることも多いため、避けた方がよいでしょう。

過保護な必要は無いと思います。ただ、一番キツイのは「無視」です。腫れ物に触るかのような必要はないけど、面倒だから無視というのだけは、しないで欲しいと思います。また、キツイ言い方をしなければならないシーンであれば、フォロー役を同席させるなど、過度に追い込まないような配慮はしてあげて欲しいと思います。他人と話すということに不慣れになっている場合が多いと思うので、話すこと=ストレスではあります。以前より言葉を選ぶ時間がかかったりはすると思います。

と、まぁ、100%私見を書いて見ました。鬱というと厄介だと思われると思いますが、一番厄介に思っているのは他ならぬ本人です。真面目で不器用な人が多いんだと思います。「適当に手を抜く」「ちょっとサボってみる」「今日は怠けてみよう」なんてことができない人たちの割合の方が多いだろうと私は思っています。「逃げ場がない」、「逃げ方がわからない」から、鬱になってしまうのであろうと思います。

また、何をもって仕事力とするかは兎も角、医者からOKをもらって復職した人は、普通の社員と等しく「戦力」としてカウントして欲しいと思います。どのくらいの「戦力」かは、新入社員が入ってきた時、皆さん遠目で観察して推し量るでしょ?あれと同じで良いと思うんですよ。但し、新卒採用の人と比べて、基礎仕事力は絶対に上ですから、1ヶ月もすればすぐに立派な戦力となるでしょう。

幸いにも私の会社は、とってもこの病気に理解のある会社だったので、色々優遇処置を取ってくれたのは、本当にラッキーだったと思っています。鬱病というだけで、スゴイ偏見を持っている人、会社も多いと聞きますが、それは大間違い。「鬱病になったことがあります=根は真面目で几帳面な人間です」と肯定的に捉えて欲しいと切に思います。一回鬱病になった人は、底力が違います。ちょっとだけ気をつけてもらえれば、スゴイ戦力になるヤツらなんだぜ!って声を大にして言いたいですね!

「いい加減」で「良い加減」な人の魅力

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たまにTwitterの私のつぶやきに出てくる「部長」(仮にAさんとします)ですが、この人がホント魅力的なのです。

まず、部長としてのAさんの魅力。リーダーに必要なスキルというのは、メンタルタフネス・傾聴・誠実・コミュニケーション等、多々あろうかと思いますが、Aさんはリーダーに備えていてもらいたいと下の者が思うスキルの多くを持ち合わせている希有な人です。2009年11月30日、Twitterでこうつぶやいたことがあります。

いやー何か燃えてきたよ俺!わくわくするぜ!沈うつな職場の空気が一変。リーダーの言葉ってスゴイ!

「ルフィか悟空みたいだ」と言われましたが、この見事な対応で、追加受注という土産を持って帰ってきました!土下座必至の状態を「ワクワクしてきた!」と言えるメンタルタフネス、すぐ顧客の元へ行くという誠実さ、同行するという行動で、「責任は俺が取る」という暗黙のコミュニケーションが部下にもたらしたであろう絶大なる安心感。いや、スゴイ人だと感動した出来事でした。

一見、完璧なAさんですが、実はヌケたところも結構あります。そんなちょっとヌケてるけど、皆が頼りにするリーダーであるAさんを観察していると、魅力的な人は「いい加減」というスパイスを加えて「良い加減」に熟成されて魅力になるのではないかと思えてきました。

Aさんは興味の赴くままに、趣味の世界を広げるのと、ヌケ具合は「いい加減」。だけど、そのことが、人としてのAさんの魅力の深みを増すスパイスとなって「良い加減」になっているんじゃないかと思うのです。勿論仕事のデキが良いことは言うまでも無いですが。

これは「仕事ができるからつき合いたい人」なのか「損得抜きにつき合いたい人」なのかの違いに通じると思います。私が鬱になった時、それまでつき合っていた人に助けを求めても、9割方の人が私の側から去って行きました。こういう人は「仕事人としての私」とつき合っていた人。残った1割は「人としての私」とつき合ってくれていた人。残った1割は大事にしなければならない人間関係なのは言うまでもありません。

仕事を介してつき合う人はスゴイ数に上ると思います。手元に有る名刺を見てみてください。スゴイ数になりませんか?じゃぁ、その名刺の中で、損得抜きで、友だちになりたいなぁ。もっと知ってみたいなぁと思わせる人って何人いますか?会社名とか、肩書きとか抜きですよ。もっと膝をつき合わせて、こちらが場所をセッティングしたり、食事代は持ったりと苦労や損をしたとしても、じっくりこの人の話しを聞きたいなぁと思わせる人です。意外に少なくなると思います。ヘタをしたら一人もいないということもあり得る話しでしょう。

このブログは私にとっては「いい加減」な動機で始めたものでしたが、損得抜きでTwitterで絡んでくれる人や、多くのブロガーと話しをし、関わり合う内に、Lifehacking.jpで開催されていた【ライフハックブログ賞】で3位という結果を得られたことを考えると、すこ〜しは「良い加減」になってきたということなのかなぁと勝手に解釈しています(^^;)
 
投票頂いた皆様、本当にどうもありがとうございました!!


さて、私自身としては、幸運にもせっかく身近にAさんというお手本が居ますので、良いところは出来るだけ盗んで、「いい加減」だけど「良い加減」にブレンドされた魅力的な人に成長したいと思います。

ホームレスのおじちゃんから学んだ真理

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「私はホームレスだったことがあります」と言ったら驚かれるでしょうか?19歳の初夏のことですが、2ヶ月あまりホームレス生活を送っていたことがあります。事情が様々重なり、半ばヤケになって、新宿の中央公園、新宿駅西口で過ごしたことがあります。

ホームレスがどういう生活をしているのか、気にとめたことの有る方は少ないと思いますので、ちょっとホームレスのサバイバル術を公開します。実はホームレスも結構大変です。普通の生活より大変だと私は思っています。 
(今とは違うと思います。良い方向に変わっていて欲しいのですが)
まず寝床の確保。中央公園には主みたいなお爺ちゃんが居て、この人の許可が無いと場所をもらえません。無断で寝ていると怒られて叩き出されてしまいます。西口も同様。指定席みたいに寝場所が決まっていて、知らずに寝ていると本気で怒られます。ちなみに夏場は地べたに直接段ボールを敷いて寝ると熱いので、数枚の段ボールをハニカム構造みたいに組み合わせて簡易ベッドを作ると快適です。


食事の確保は一筋縄ではいきません。コンビニのゴミを漁るのは王道として、お店のあまりものとかをもらえたら超ラッキー。たまたま知り合ったおじちゃんが若い新入りに同情してか、色々と割の良い店を教えてくれたので、何とか食いつなぐことができました。ちなみに歌舞伎町の寿司店には良い人が多く、閉店直後に行くと良物が手に入る確立が高く、おじちゃんにあげて恩返ししていました。

収入源は日雇い労働が主流だし、一番高額な仕事になるのですが、意外とバカにならないのは雑誌の路上販売。少年ジャンプや少年マガジンなんてコンビニのゴミ箱から拾ってきたのを100円って書いて並べて置けばマジで売れていきます。必ずやらなきゃいけないのが、ページのチェック。切り取られてたり、ガムがくっついているのは除外しないといけません。エロ本の類も他の雑誌の表紙を貼り付けて、「ワケアリ品」と書いておくと買っていくサラリーマンは結構いましたねww

あとは、炊き出しの情報とか、そういうのは完全にクチコミ。ホームレス同士のクチコミネットワークは命綱とも言うべきものでした。特に衣類は炊き出しの時にもらえたりするから結構重要。寒くなるとより良い衣類を沢山重ね着する必要があるので、夏からせっせと溜めておく人もいました。

結局ホームレスも衣食住は必須だし、経済活動は必要なわけです。但しそれが世間一般で言うところの「普通」より下に見られているだけなんです。銭湯には欠かさず通っている人も多くいますから、みんながみんな垢まみれってわけでもないのです。

さて、何でこんなことを書き出したかと言えば、私のことを親身になって話しを聞いてくれて、食事の情報、炊き出しの情報、快適な寝床の作り方、挨拶しておいた方が良い人、最後はこの状況からの脱出方法まで、何から何までお世話になった、おじちゃんがこう言っていたことを、思い出したからです。

「なーんにも、知らなきゃ今の生活で充分満足なもんだよ。知らないってのは幸せなもんだよ」

石庭の素晴らしさで知られる京都の龍安寺に写真の蹲踞(つくばい)があります。あまりにも有名なのでご存じの方が多いと思いますが、真ん中のお水を入れる四角を共有すると、上から時計回りに「吾唯足知」(われ ただ たるを しる)と読めます。

元は禅問答で用いられた言葉ですから、本来は一生を賭しても悟ることは難しい深遠な言葉だと思いますが、解説には「満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者はたとえ金持ちでも不幸である」と解釈するとあります。

古今東西の賢人も同じようなことを言っています。
老子は「禍は足るを知らざるより大なるは無い」「足るを知るの足るは恒に足る」「足るを知る者は富む」と言っていますし、アリストテレスは「幸福はみずから足れりとする人のものである」と言っています。預言者ムハンマドも「まことの豊かさは物資の潤沢さからのものではなく、心の豊かさからのものである」と言っています。


周りを見渡すと、常に不平不満ばかり言っている人がいませんか?足るを知らない人は一つ満たされても次から次へと新たな不平不満を見つけ出してくるようです。なぜ不平不満が出てくるのでしょう?ひとつには、それは人と比べるところにありそうです。自分が持っていないものを人が持っているとき、人を妬み羨む気持ちが起こり、人と比べて自分の現状に満足できず足りないと感じるところからくるのかもしれません。また、物事が自分の思い通りにならなかったり、自分の気持ちを勝手に人に期待し、人がそれに応えられなかったりすると不平不満が出てきがちです。いずれにせよ、要するに我執であり、自己中心的な状態のときに不平不満が出てくるものだと言えるのではないでしょうか。

そう考えると、おじちゃんの言葉は真理を突いていたんだなぁと今になって思い至りました。新しい製品、新しいサービス、流行の洋服等々、今や情報があふれかえっていますが、おじちゃんの言うとおり、そんなものの存在を知らなければ、今の状態で「満足することを知る」ことが出来るのです。私たちは極めて相対的なことで幸せや不幸せを感じているに過ぎないとも言えます。

人の欲には際限がありません。欲を追い求め続けてもきっと全ては手に入らないと知っているだけでも、楽になれるかもしれません。スーパーマン・スーパーウーマンではない、普通の人であれば、余計にどこかで折り合いをつけて満足することを知っておいたほうが良いでしょう。もっともっとと求め続けていては、決して「幸せ」にはなれないのかもしれないのですから。

私は、あの頃に比べたら夢の様な生活を今、手にしています。風雨を避けられる快適な家があります。職業があります。お給料をいただけています。お腹いっぱい食べられます。洋服もあります。大好きな家内が傍にいます。何かと和ませてくれる愛犬が2匹います。一体何の不満があるでしょうか!?

ホームレス生活最後の日、別れ際、おじちゃんに「お前にはまだまだ先がある。ココの生活に戻ってきては駄目だ!いいか!絶対に駄目だぞ!ココにも出来るだけ近づくんじゃないぞ!」と肩をガタガタ揺さぶられ、真剣な眼差しで言われた言葉が、今日は何だかとても重く感じました。

あなたは「満足を知って」いますか?

『菜根譚』に見る『減らす技術』の源流

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『菜根譚』という書物をご存じでしょうか?中国明代末期、洪自誠(別名:洪応明、還初道人)が書いた随筆集です。前集222項、後集135項からなる書物なのですが、日本では禅僧の間で愛読され、今では漫画版まで出ているのでご存知の方も多いことと思われます。

特に後集2項の『不如省事(事を省くにしかず)』の部分がつとに有名で、政治家の椎名悦三郎はここから『省事』、つまり物事は些細で煩雑なことはなるべく切り捨てて、根幹を成す部分を簡単明瞭に掴むことが肝要。枝葉末節にこだわるあまり、大切な根本をおろそかにしないようにということを人生訓としたとのことで、今も『省事』を心に刻む政治家、経営者は多く、菜根譚の愛読者も多いと聞きます。野村克也氏も愛読していると聞いたことがあります。

私は多少、漢文を読む心得はあるので、たまに原文(こちらでも原文が読めます)をつまみ読みしてみるのですが、ついさっき、後集131項がとても興味深い内容であることに気づきました。

後集131項
<原文>
人生減省一分、便超脱一分。如交遊減便免紛擾、言語減便寡愆尤、思慮減則精神不耗、聡明減則混沌可完。彼不求日減而求日増者、真桎梏此生哉。

<書き下し文>
人生は、一分を減省(げんせい)すれば、便(すなわ)ち一分を超脱(ちょうだつ)す。
如(も)し交遊を減ずれば便ち紛擾(ふんじょう)を免(まぬが)れ、
言語を減ずれば、便ち愆尤(けんゆう)寡(すくな)く、
思慮を減ずれば、便ち精神を耗(こう)せず、
聡明を減ずれば、則(すなわ)ち混沌(こんとん)完(まったく)す。
彼(か)の日に減ずるを求めずして、日に増(ま)すを求むるは、
真に此(こ)の生(せい)を桎梏(しつこく)するかな。

<Kazumoto流かなり適当訳>
人生は、何かを少し減らせば、少し何かを越えてゆける。もし交遊関係を減らせば揉め事から解放され、
言葉を減らせば過失を少なくすることができ、
思案を減らせば精神的な消耗をせずに済み、
“聡明=かしこさ”を減らせば混沌の無い本来の心を取り戻せる。日々、何事かを減らそうとせず、逆に増やすことを求めたら、
それは真に、自分で自分の人生を束縛するようなものだと言える。

<解釈本による説明>
一日余計に生きれば、一日余分な垢がたまるのが俗人の人生で来る者拒まず去る者追わずならまだしも、
人間関係なるものを拡大しようとしている老いた俗人は多弁ゆえに陰口を言われ、下手な考えゆえに馬鹿にされ、結局は疎まれて終わっている。言い換えれば、達人の生き方は、正に現役時代に付着した垢を落として、本来の心を発現させてゆくべきものだろう。翻って言えば、達人たる者の人生は「捨ててこそ完成される」と肝に銘じておこう。

日々減ずることを考え求める、これはLeo Babauta著『減らす技術 The Power of LESS』に繋がる考え方じゃないかと思ったのです。明代末期となると1640年頃(明王朝は1644年まで)でしょう。日本では関ヶ原の戦いがあった頃。そんな昔から増やすのではなくて、減らすことの重要性を論じる人がいて、現代でも未だ言われ続けているというのは、人間って根本的な所は進歩してないんだなぁと思うとともに、何とも皮肉な話だと思います。

菜根譚の解釈本が言う「俗人と達人」を現代風にアレンジするとこんな感じでしょうか?

「人脈作り」などと称してパーティーやセミナー、勉強会に出まくり、名刺を配りまくる人は、少しでも自分を良く見せようと多くを語ることになる。多くを語ったがために、いつかボロが出て、陰口を言われる羽目になる。付け焼刃の知識を披露しても、底が知れてバカにされ、結局自分で自分の首を絞めるだけの結果になる。
達人は、日々の生活で出会った人、得た知識、得た知恵を取捨選択し、その多くをバッサリと捨てることができる。重要な人とのみ付き合い、不要な人脈の拡大はしない。自分を良く見せる必要も無いので、多弁になる必要も無い。故に人から疎まれることもない。人生を選択し価値あることに集中することで、達人は達人になるのである。


さて、明日は何を減らしましょうか?

品質管理にみるLifehackの見つけ方

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製造業にお勤めの方は、骨の髄までこの考え方が浸透しているでしょうし、耳タコものだと思いますが、品質管理の手法のひとつに、6Sという考え方があります。整理・整頓・清潔・清掃・躾・習慣の6つのことです。ちょうど今、職場のワークフローの全工程の見直し改善作業という長期スパンのタスクを抱えているので、品質管理やら業務管理やら、会社のお金の流れなんて基礎的なところまで、全部再学習&適用の模索をしているのですが、ひょんなことから品質管理とLifehackに共通性があることを発見しました。

トヨタ生産方式を研究し、それを一般化・再体系化した、マサチューセッツ工科大学のジェームズ・P・ウォマック(James P. Womack)、ダニエル・T・ジョーズ(Daniel T. Jones)両名による、リーン生産方式(LPS / lean product system)では上記6Sをさらに、このように分析しています。

  • 「選別する」ー材料と道具は必要なものとそうでないものに分類する
  • 「整える」ー道具やその他のものを使い易いように配置する
  • 「磨く」ー清潔を徹底する
  • 「標準化」ー上記の3つを実施するために、いつ何をするかを具体的に示した計画を作る
  • 「維持」ー各ステップ実施を、継続的から習慣に変える工夫をする

さて、職種によって必要な道具というものは大きく違ってくるとは思いますが、「私の仕事にはこれが必要だ!」という仕事の相棒を全て書き出したことはありますか?ちなみに私が書き出した結果はこうでした、

パソコン、マウス、マウスパット、電話、電源タップ、手帳、5x3インチカード、iPhone、3段トレイ、文具(4色ペン+鉛筆+製図用シャーペン+蛍光ペン3色+ナイフ)、ホチキス、ゼムクリップ、印鑑、朱肉、精密ドライバー、ピンセット、メンディングテープ、定規(30cmと三角スケール)、カッター(大・小)、カッティングボード、クリップボード、A4裏紙、昼寝用枕、複合機(共用)です。

また、資料の類も、当社 のカタログ、Excel マニュアル本、各種プリンタのドライバCD、MicrosftOfficeのライセンスCD、PCのリカバリーCD、多少の業務マニュアルくらいでした。

これは意外と少なくてイケる!と思ったので、上記を除いたものを、昨年末の仕事納めの時に、すべてダンボールに詰めて倉庫へ隠し、どれだけ困るかどうか1ヶ月ちょっと様子を見ているのですが、今のところ全く困ることはありません。これは「選別する」という作業を終えたと言って良いと思っています。

次に「整える」ですが、先般のエントリー「GTDの網をすり抜ける極小タスクの捌き方」でも書いた通り、自分が快適な環境は現時点ではコレだ!というのを決めていますので、それ以外は引き出しに取りやすいように配置してしまってあるのでOK。

「磨く」については、毎朝私は、自分のデスクを拭き掃除しますし、帰社する際にも乾拭きをしてから帰るようにしているので、クリア。

「標準化」ですが、複合機は共用資産なので別として、私は金曜日の4時30分頃から5時頃までを、これら最低限必要なもののメンテナンスにあてるようにしています。パソコンのキャッシュを消したり、といったところから、ペンのインクの減り具合の確認、ホチキスの針の補充、カッターの刃を折っておくなどを行っています。これは次の「維持」とともに最早習慣なので、これらもクリアでしょう。

つまり、なめらかに日々の仕事を行うにあたり、無駄と障害を特定し、減少させ、排除し、残った必要なものをメンテしていく絶え間ない手順である品質管理手法は、知的品質管理(?)にも十分当てはまる「普遍の仕事の手順」なのだと言えそうだと思うのです。

ジェームズ・P・ウォマックとダニエル・T・ジョーズは、このシステムを維持、向上させる重要な方法として、「どうすれば毎回仕事を、より手際よく、迅速に、簡単にこなせるだろうか?」こう自問して絶え間ない向上に努めることが重要だと述べています。

この言葉って、Lifehackと同じだと思いませんか?@mehoriさんも、@nokibaさんもライフハックとは「小さなことを繰り返すこと」「人間の頭のいい部分と、悪い部分をつなぐ近道」「人生を変えるための小さな習慣」だとおっしゃっています。これは少しづつ手際を良くしていく品質管理と同じじゃないか!?と気づいたわけです。

新しいLifehackを見つけようと身構えると全然思いつきませんが、毎日終わった仕事を少し振り返って、より楽に、簡単に、速くこなせるポイントはないか?と問い続けていれば、ガンガン見つかるかもしれません。それこそ、電話の角度は50°が一番ボタンを速く押せるというのも、MyLifehackでしょうし、私のようにあえてワゴンは使わないことで収納量を減らすというのもMyLifehackといえるでしょう。より少ないキーストロークで文章を書くようにするソフトを使うのもLifehackですね。

少しでも楽できるポイントをワクワク楽しみながら探す。Lifehackも品質管理も、家族を驚かす悪さを考えていた子どもの頃のような感じで、肩肘張らず気楽なスタンスでいる方が良い結果に結びつくのかもしれません。

真に美しい物は沈黙を強いる-武相荘にて-

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先日、旧白州次郎邸「武相荘」を訪れてきました。勿論、私が白洲次郎という不世出の傑物の大ファンだということもあるのですが、実は、そのことよりも正子夫人が稀代の目利きであり、一般公開されている武相荘では、その愛蔵品から四季にあった品物を季節毎に展示しているので、そのお宝を直に観てみたかったというのが本音です。

母屋に入り、最初の部屋は洋間です。その部屋は完全に白洲次郎の部屋です。英国人より英国人らしいとまで言わしめた男の美意識が見て取れます。ソファにふわっとかけられたセーターですらカッコイイ。本棚の上に無造作に重ねられた100年前の辞書、ワイングラスと無造作に広げられた当時のイギリスの雑誌。「こんな部屋で暮らしたい」本当にそう思わせるかっこよさです。何しろあの白洲次郎の部屋を再現するのですから、展示するスタッフの方も大変ご苦労されていると思います。

その洋間を抜けると、和室が二間。片方に着物や反物、もう片方に漆器やお盆などが展示してありました。私は着物に関しては完全に素人ですし、磁器に関しても大した知識はありませんが、順路である廊下から右に振り返って展示品が目に入った瞬間、息を飲み、背筋がゾクゾクとするばかりで、しばし動けなくなりました。素人でもその品々の美しさに圧倒されるのです。

江戸時代の漆器、誰もが知る名工の碗、螺鈿のお盆、古墳から出土したガラスで作られた装身具、花器、書、着物・・・etc・・・そのジャンルは多岐にわたり、造詣の深さとその目利きにただただ圧倒されます。

そして脳裏を過ぎったのは世阿弥の『花伝書』の一節でした。

物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし。美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

花同様、「物の美しさ」については、如何様にも話すことができます。このブログの愛着品紹介なんて良い例でしょう。使いやすい、見た目が美しい、こういう材料を使ってる、こんな職人さんの技術で作られている・・・etc、でも、今まで紹介してきた愛着品たちには心苦しいのですが、これは格が違いすぎます。本当に、真に、美しい物はその姿形で充足している、もしくは完結しているので、言葉が入りこむ余地がありません。故に沈黙を強いるのだと強く感じました。(私の所有している物で唯一対抗できそうなものは鈴木りょうこさん作の茶碗くらいです)

またその美しさは、所有し、使って初めて、真の美を纏うのだと感じました。展示してあるもののどれもが絶対一度は日常生活で使ったであろう跡を観ることができたからです。ほんの少しの傷、かすれ、カケ、それすらも美の構成要素の一部なのです。
美とは、物とは、決して単に鑑賞するものではなく、本来は、共に過ごし、共に語らうことができる親友のような関係であるべきなのかもしれません。そう考えると、価格の多寡に関わらず私の愛着品たちも、ちゃんと毎日実生活で使い、生活に彩りをもたらしてくれていますから、徐々に美しさを纏うようになってくれると嬉しいなぁと思わずにはいられませんでした。

帰り道、運転をしながら先ほどの衝撃と感動を思い返していると、ふと恩師のことを思い出しました。恩師の自宅の客間には南大路一画伯の書いた『春』の原画が飾られています。この絵も初めて見た時にハッと息を飲み、微動だに出来なかったことがあります。その時、恩師にこう言われたことを思い出したのです。

へぇ。これを見て、動けなくなるか。感じることができるんだね。もっと沢山のものを見ていると、次第に物がハッキリと「見える」ようになる。何十年後かな?まぁ楽しみにしていなさい。

未だ「見える」ようになっているとはとっても思えませんが、少なくともまだ「感じる」感性は有していたようです。
美しい物を感じ続けると見えてくるもの、もしかしたらそれは何かしらの「理」もしくは「筋」なのかもしれません。

最後は武相荘の主、白洲次郎の言葉で締めることにします。

プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことはない。
プリンシプルに沿って突き進んでいけばいいからだ。そこには後悔もないだろう。

ある種、究極の不安「老いと死」に抗するHACKはあるか?

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今日、上司と話しをしていたら、「お前もちゃんと老後の備えをしておけよ〜。その時が来てからじゃ遅いからな〜」と言われました。先日身内を亡くされたばかりの上司なりに思うところがあっておっしゃったのだろうと思います。しかし、この一言はかなり私の心を波立たせました。

仕事術系の本には、その仕事の最終地点(ゴール)をハッキリさせて、今やるべきことに的確に注意を割り振ることが出来るようになり、物事を上手く進められるというようなことが書かれています。GTDも「今すべきこと」への「注意の管理」に力点を置いた手法と言えますね。

しかし、受け止め方は人それぞれあるでしょうが、人生の最終地点は「死」です。そして、この最終地点はどうやら現時点で回避することは不可能なもののようです。

そして「死」の前には、寝たきり、痴呆、老いによる身体の不調・・・等々、様々な困難がほんの数十年先には待っています。これは多くの人に共通するであろう、ある種、究極の「不安」のように思えます。だから上司も「備えをしておけ」などと言うのだと思うのです。
では、この不安の理由は何かと考えてみると、他の不安と同様、何のことはない「どうなるかわからない」ということが原因だと言えそうです。


そうだとすれば、「どうなるかわからない」ことを、「どうにかわかる」ようにする手法はないものでしょうか?仕事術の手法を応用して、どうにか未知のことを見通せることに変化させることはできないものでしょうか?
「老後」を特集した雑誌に挙げられる対策例を引き合いに、私たち夫婦に当てはめたらどうなるか、ちょっと検討してみます。

1.子供に面倒をみてもらう。
 私たち夫婦は理由があって子供がいませんので、この選択肢はあり得ません。

2.絶対足りなくならないだけの資金を確保しておく。
 「生活保障に関する調査」(生命保険文化センター・平成16年)では、現役世代も対象者にして、夫婦2人での「老後の最低日常生活費」「ゆとりある老後生活費」の金額について質問したそうです。その結果によると、最低日常生活費の平均は24.2万円、ゆとりある生活には37.9万円必要という回答とのこと。

夫婦2人で老後を25年過ごす(60歳から85歳まで)とすると、
37.9 万円 × 12ヶ月 × 25年 = 1億1,370万円が、ゆとりのある老後を過ごすのに必要な資金ということになります。
えーっと、私には1億円を準備できる自信はありません。うわ〜!マジで不安になってきた。

3.生涯現役で働き続ける。
 これも「元気でいる」ことが条件です。しかしそれだけの仕事ができる人間であれば、多少なりとも収入の面では底上げができるかもしれません。所謂『HEALTH HACKS』はココに効いてきそうではあります。

4.二人で介護しあう。
 共倒れ率100%の選択肢です。幸いにも今住んでいるマンションは、ローン山積みとはいえ、持ち家ですので、買うときの試算では60歳には払い終えて、家賃からは解放される予定です。とはいえ・・・この選択肢は厳しいでしょう。

4.プロに頼む
 ヘルパーさんや24時間介護を頼むとなれば、膨大な金額がかかります。年金や貯蓄程度で追いつく額ではないそうです。人件費が一番高いですから、当然と言えますね。

5.海外の福祉充実国へ移住する。
 そこの国にそれまで税金納めてないですからねぇ。この選択肢はアリなのかなぁ?

う〜ん、どれもこれも何だかイマイチです。2なんて不安を煽るだけです(^^;)1億円・・・悪事をしないと手に入れられそうにありませんよ。
どうやったらほんの数十年先に迫った、この大きな不安を払拭できるのでしょうか?例えば60歳を過ぎたら、本人の意志で「安楽死」を選択できるとかいう法律があれば良いのでしょうか?しかし、60歳前に脳に損傷を受ける事故にあったり、若年性痴呆症なんかを患ってしまったら、「本人の意志」というところで揉めそうですしねぇ・・・。


突然、神が目の前に現れて、「アナタハ、メチャクチャゲンキデ、ドコモイタクナク、ネムルヨウニ、ポックリ死ねマース」と『確約』されていれば安心できるのかもしれませんが、悲しいかな、そうは問屋が卸さないのが現実です。
もし、この近い将来に厳然と立ちはだかる大きな不安を払拭できる手法を見つけられたら、それが『究極の"ライフ"ハック』だと言えるかもしれませんねww
皆さんは、「老後」の準備って何かされてますか??

BtoB型の商売で「Win-Win」は本当に成り立つのか?

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追記:R-style待合室にて、倉下忠憲さんが私が陥っていたものの正体を教えてくださいました。本記事をお読みになった上で、R-style待合室の記事をお読みいただくと、理解が深まると思います。倉下さん、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました!

今回は私が、基本的なことが分かっていないことを暴露する結果になるだけかもしれません。このところの商売の中で、どうにも「Win-Win」というものが良く分からなくなってしまったのです。

超ド級に有名、且つ自己啓発書の頂点の一つとも言える『7つの習慣』の中に、第4の習慣として「Win-Win」という項目があります。最近では営業さんと商談していても、「ここら辺が落とし所では?Win-Winが保てるポイントだと思いますよ」とクロージングしてくる人もいらっしゃいます。(まぁ私からすると、当然ここからがネゴのスタートで、もう勘弁してくれと言われてからが本当の商談という感じですが(笑))

「自分も勝ち(Win)、且つ、相手も勝つ(Win)」確かにお互いにメリットがある仕事であれば、とてもフェアで良い考え方だと思います。例えば名匠が作ったお椀に価値を認めて対価を払うという行為は名匠は金銭的にWinでしょうし、買い手は価値を認め、満足しているのですからWinという関係と言えると思います。
しかし、ことBtoB型の商売で考えて見れば、これはどこか変ではないでしょうか?「勝つ(Win)」という概念がある以上は、どこかに「負け(Lose)」が生じているとも言えるはずです。敗者無き勝者はありえないのですから。


Aという製品を買いたいお客。売りたい販売者。というケースで考えてみましょう。お客は如何に安く買えるかがポイントです。販売者は如何に高く買ってもらうかがポイントです。

この商談では、お客との契約金額が原価を割ってしまったら、販売者は完敗です。逆に余りにも高粗利で販売者が売り切ったとしたらお客の負けです。
お客としては、一銭でも損をしないように他社からも相見積もりを取ったりして、何とか最安値で買おうとするでしょうし、販売者も限界ギリギリまで値下げしたり、プラスアルファの付加価値を付けたりと知恵を絞って、何とか買ってもらおうとするでしょう。
しかし、この構図になると、最後は相見積もりを重ねてジワジワ値下げ交渉を辛抱強く続けたお客が勝ち、販売者は原価ギリギリの利益しか出ない結果となるように思うのです。


この場合でも「お客は安く買えたからWin。販売者は些少なりとも利益が出たからWin」となるのでしょうか?ちょっと無理がありませんか?私には販売者は限りなくLoseだと思えるのですが・・・

仕事とは経済活動ですから、お互いの要望を何とかすり合わせて、利益を追求していくことだと思います。その利益とは第一に『お金』であり、その他に『技術的な経験値』や『他の顧客で使えるノウハウ』等という形の場合もあるだろうとは思います。

例えばB社がある新製品を作る際に、特別な技術が必要だったとします。その特別な技術を下請けが開発した。しかしB社にその技術は買いたたかれてしまったといった場合、「B社は『お金』で勝った。下請けは『技術的経験値』で得るものがあった(勝った)」ということと理解すれば良いのでしょうか?下請けの『技術的経験値』が他社に売り込めるものでであれば成り立つのかもしれませんが・・・どうなんでしょう?

つまり、BtoB型の商売として考えると、決して「私たちは『お金』で勝った。あなたたちも『お金』で勝った」とはならないのではないかと思うのです。あるのは「どちらかが勝つ」若しくは「even(引き分け)」そして「No-Deal(取引しない)」という選択肢ではないかと思います。

もちろん人間関係では別だと思います。相手を思いやり勇気を持ってこちらの立場を説明し、お互いにより建設的な関係を築くことは十分考えられると思います。しかし、あくまでBtoB型の商売という観点で考えると、私には「Win-Win」は本当に成立するのだろうかとこのところ、疑問に思えてならないのです。どなたか、BtoB型の商売でのWin-Winの具体的な成功ケースがあれば是非教えてください!

雑感ー『便利』が生み出す副作用ー

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世の”平和度”を測るのに「精神疾患」と「犯罪件数」が指標として参考になるという話しを聞いたことがあります。戦争や災害などの非常時には精神疾患は極端に減るのが普通です。ノイローゼというのは余計なことをあれこれ思い悩んで起こるものです。実際に危機に直面するとその対処が最優先事項ですからノイローゼは起こらない。その代わり、強盗とか殺しとかの犯罪という、もっと具体的な行動となって現れるというのです。
つまり、平和であればノイローゼの人は増えるかもしれないけど、犯罪率は下がる。平和でなければノイローゼは減るけれど、犯罪が増えるというわけです。学術的裏付けはわかりませんが、一応筋は通っているように感じます。

今の日本はどうなんだろう?と、犯罪率の推移はどうか、法務省のサイトで『犯罪白書』を見たところ、認知件数・発生率の部分で、法務省はこう分析しています。
刑法犯の認知件数は,平成8年以降毎年戦後最多を更新し,14年に369万3,928件を記録した。その後は毎年減少し続け,20年は前年より15万7,532件(5.9%)減少となったが,戦後を通じて見れば,まだ相当高い水準にある。
刑法犯の発生率の動向は,認知件数とほぼ同様である。平成10年(2,127.2)以降,毎年戦後最高を更新し,14年には2,897.5を記録した。翌15年から低下に転じ,以後,毎年低下し続け,20年は1,984.0(前年比122.1p低下)となった。
毎日悲惨なニュースが報道されますので、犯罪件数は右肩上がりで伸びているように思えますが、平成14年をピークに徐々に減っているけれども、以前として、高い水準だのことです。(ということは、平成14年までは平和ではなかったとも言えますねぇ)

では、一方のノイローゼ(含む鬱病患者)はどうなのでしょうか?厚生労働省には具体的なデータは見つかりませんでした。警察庁に自殺統計という資料があったので、その元データと分析結果を検索したところ、平成20年のデータですが、このような結論になっていました。
1年間に自殺した人は前年に比べ2.9%(938人)増の3万3093人で、このうち「鬱病(うつびょう)」が原因・動機とみられる人が約18%に当 たる6060人に上り最多だった。
また、新聞記事なので、データの根拠としてはどうなのかアレですが、読売新聞が2010年1月7日に「うつ百万人。影に新薬」という記事を載せています。必要なところだけ抜き出すと、
・うつ病患者が100万人を超え、この10年間で 2・4倍に急増している。
・国の調査では、うつ病など気分障害の患者は、 2000年代に入り急激に増えており、一概に不況だけの影響とは言えそうにない。
・抗うつ薬市場は1999年に新規抗うつ薬 「SSRI」が登場してから急伸している。
・欧米でも、この薬が発売された80年代後半から 90年代初めにかけ、患者の増加がみられた。
・うつ病啓発キャンペーンで精神科受診の抵抗感が 減った一方、一時的な気分の落ち込みまでうつ病だと思う人が増えた。
・精神科診療所の医師に対する調査では、約8割の 医師が、うつ病の診断が広がり過ぎていることに懸念を示した。
とのことです。ともあれ、国の調査でも増えている(一体どこの省のデータなのか不明ですが)ということは言っても良さそうです。

犯罪数も高水準でキープしている。精神疾患の人も増えている。ということになりますよね。となると、冒頭の考え方では説明の付かない、どうにもおかしなことです。今は「平和だと言えなくもないけれど、平和ではないとも言える」というおかしな事態ということです。

ふと、ある仮説が浮かびました。それは「便利は人の心を蝕むという副作用があるのではないか」という仮説です。

我々の先人達は一生懸命に脇目もふらずに働きました。その目標の究極は、働かなくても暮らせる豊かな社会を作る為と言っても良いのではないかと思います。そしてこの目標は現在の日本では、ほぼ達成したと言っても良いのではないかと思います。
テクノロジーはどんどん進歩し、家電製品はもはや万能といっても良いでしょう。
家電にできないことと言ったら、洗濯物を畳んでしまうことくらいではないでしょうか?
インターネットや携帯電話なんて、もう無かった頃はどうやって仕事してたのかわからないくらいです。
スーパーに行ったら、世界各国から輸入されたものが山積みです。もう「旬の時期だから食べ逃したらイカン!」という旬の食べ物の本当の旨さがわかる自信がもう私にはありません。水すら無菌状態のミネラルウォーターが当たり前になりました。


ニートという言葉があります。教育機関に所属せず、雇用されておらず、職業訓練に参加していない者のこと、だそうです。報道では何やら問題視されていますが、かなり極論ですが、角度を変えて見ると、ニートって実はスゴイことだとも言えると思うんです。その人の生活費がどこから出ているのかというのはその人の問題ですから考慮外とすれば、働かないで暮らせる人が増えたといえるわけでしょう?それは社会が豊かになったということで、喜ぶべき事態とも言えるのではないでしょうか?

しかし、これは本当に「進歩」と言っていいのだろうかと最近思うのです。地球環境を考えるなら、一個一個ビニールで包装されたお煎餅なんて何故そんな包装にしているのかわかりません。お肉やお魚はなんで発泡スチロールのトレイに乗ってる必要が本当にあるんでしょうか?季節に左右されるはずの食物が一年中並んでいることに違和感を覚えませんか?

身の回りの持ち物も見直していても、違和感を覚えるものが沢山あります。例えば、
炊飯器・・・我が家に炊飯器はありませんが、保温するということだけで電気を消費するのはどうなの?と思います。
洗濯機・・・別にお風呂入った時に手洗いすれば良いんじゃないの?と思います(我が家はバスタオルみたいな大物や疲れ切っている時以外はそうしてます)
掃除機・・・箒とはたきと雑巾が一番だと思うのですが・・・超経済的でしょ(笑)


ヘンリー・D・ソローは著書『ウォールデン 森の生活』の中でこんな言葉を残しています。
私は訪れて来る人たちの違いに気付きました。少年や少女、それに若い女性はたいてい、森にいるのがうれしそうでした。彼らは池を覗き、 花をみて何事かを知り、時間を上手につかいました。
 ところが仕事を持つ人は、農民でさえ、森にひとりでいることがとても気になるようでした。仕 事のことばかり考え、私が他の人から遠く離れて暮らすことに、絶えず触れました。彼らは森を散歩するのもいいものだ、と言いながら、楽しんでいませんでした。彼らは暮らしを守るのに忙しく、心を仕事に占領されています。
(第六章「訪問者たち」より引用)
” 暮らしを守るのに忙し”く、生きることを楽しむという力がどんどんと弱まって行っているというのが現代社会なのかもしれません。さらにつけ加えるなら、便利になればなるほど、生きる力が"弱まる"のではないか、だから心を病む人が増えるし、外にはけ口を求め犯罪に走るのかもしれないと思うのです。

不便なことは確かに大変です。炊飯器も洗濯機も掃除機もスーパーに山積みになっている食品も、重宝する調理器具も、みんな不便で大変なことから解放してくれた!と喜ばれたものだと思うのです。しかし、皮肉にもそのおかげで、身体を動かす機会が減りメタボリックなんて言葉が生まれ、余りにもクリーンな環境で育つが為に子どもの免疫力は落ちてきていると聞きます。旬の味覚を堪能する舌の鋭敏さがなくなり、食べることに至っては、調理されたものが売っています。
こうした過剰な便利さが、「
平和だと言えなくもないけれど、平和ではな いとも言える」という奇妙な事態を起こしている原因、心も身体も病んでしまう原因なのではないかと思ったのです。

もう一度不便に戻ろうぜ!と言う気はありませんが(戻れないでしょうしね)便利なものには副作用があると思って、今、不便だと感じていることを解決しようとする際、すぐに便利(そう)なモノを買うのではなく、一手間かけて解決できないか、少しばかり「生きるための知恵」を絞ってみるようにすれば、この奇妙な世の中であっても、『真に生きる力』を取り戻すきっかけになるかもしれないと思います。