『恩師』と呼べる人は何人かいらっしゃいますが、私の人生で一番大きな影響を与えたのは中学1年の時の担任の先生です。中学の頃の記憶はもう朧気なものですが、この先生の一言一言は良く覚えています。私たちが先生の最後の教え子だったということも関係しているのかもしれません。私たちを1年間教えたら先生は定年退職されることになっていました。
一番最初の出会いはこうです。入学式が終わり、教室で緊張している私たちに向かい、身長180cmを超える背の高い先生が、教壇からにっこり微笑んでおっしゃったのは「小学生と中学生の違いはなんだと思う?」でした。皆戸惑っていると、笑って「電車の切符が大人料金になるんだよ。つまりもう君たちは大人だということだ」とおっしゃいました。大人への扉がギギっと開いたような気がしたのを良く覚えています。
先生の授業はいつも脱線の連続でした。不思議なことに脱線の内容の方が記憶に残るものです。事実、今思い出してもかなり際どい男女の関係について、怒りや暴力について、音楽や絵画、芸術の大切さについて、正しい行いとは何か。正しい事と悪事の境目はどこか。そして環境問題。あらゆる時代の先生の友人、教え子を例に取り、面白おかしく軽妙洒脱に本当に授業の時間が永遠に続けばいいとさえ思うくらいに楽しく教えて下さいました。理科の先生だったのですが事ある毎におっしゃっていたのは「理科は実用の学問である」でした。これは真実だと今になってようやく理解できるようになりました。しかし、とてもとても不思議なのですが、テスト前にノートを見ると、そこには教科書の内容が綺麗にまとめられているのです。あれだけ脱線して皆を笑わせておいて、どうしてノートができていたのかは今も謎です(笑)
テストも独特でした。「次の惑星直列が起こる日付を記せ」これが中1の1学期の期末テストの問題です。教科書に答えは書いていない、明らかに教育指導要領の枠組みを超えた問題です。さらに夏休みの宿題は「シダ植物を1ヶ月理科室に置いておいて世話しなくても育てられる仕組みを考えること。夏休み前にその仕組みを作り上げて理科室に設置すること」教職の単位を取る過程で(私は中学と高校の教員免許を一応持っています)シダ植物の教育が中学1年に盛り込まれているのは、性教育の側面があることを知りました。ですが、先生はそこから一歩踏み込んで、生命をどうしたら維持できるのか考えさせる問題としたのです。土、光、水、空気など、植物に必要なもの、生命を維持することの大変さ、命の尊さを学びました。そして先生の教師生活最後のテスト問題は「私の顔はどれでしょう?」と書いてあって音楽の先生、現代文の先生、数学の先生、体育の先生、校長先生らの顔写真がズラッと印刷してある中から、先生の顔を選んで丸を付けるという問題でした。テスト中に大笑いしたのはこれが最初で最後です。何たる粋で見事なフィナーレ!
一番私に影響を与えた一言は家庭訪問の時でした。当時1歳なるかならないかの弟がいたのですが、私の話はな〜んにもしないで、弟とばかり遊んでいるのです。母とは弟の育児について何やら話されていました。そして幾つか私の事に対する母からの質問に答えた後、先生はこうおっしゃいました「なぁ、kazumoto。君は将来嫁さんをもらいたいか?」「???ハイ。一応。」「じゃぁ、もっともっと勉強しないとダメだな」「何でですか?」「女性はね、良い遺伝子を持つ相手を伴侶に選ぶ。いいか男が選ぶんじゃない。女性が選ぶんだ。じゃぁ、良い遺伝子って何だ?見た目も重要かもしれない。腕力も一つの魅力だろう。でも、人間の最大の能力は『知力』だ。これが無ければ子孫を守り育てることができないからね。だからモテる為には、伸ばせる能力の中で一番有効な『知力』を伸ばすことが大切だ。つまり勉強することが重要なんだ。モテたいだろ?可愛い彼女が欲しいだろ?可愛い嫁さん欲しいだろ?だったらもっと勉強しなきゃダメだ」そう、私はモテたいが為に、この一言から勉強するようになったのです。なんと不謹慎なアドバイスだと思われるかもしれませんが、今思えば、反抗期で異性を意識し出すこの時期の子どもを勉強するようにさせるにはコレしかないと思えるアドバイスだと思います。この一言が、私の人生を変えた一言です。
先生が退職される時、私が生徒を代表して作文を朗読しました。もうその文章は記憶していませんし残ってもいませんが、当時の私は1ヶ月ほど、どういう言葉で恩師を送り出したら良いか、全力で考え、七転八倒して書き上げました。朗読が終わると、先生はマイクを通して全生徒に、「どうもありがとう」とおっしゃってから、私をぎゅっと抱きしめて「素晴らしい言葉たちだった。どんな境遇にあっても学び続けなさい。本を読み続けなさい」と耳元でおっしゃいました。思えば本を一生の友とするように導いていただいたのも先生でした。
卒業後も先生には節目節目で導いていただきました。
高校時代、先生に呼び出されたことがありました。後で知ったのですが、私のあまりの奇行・悪行ぶりに悩んだ母が、先生の言葉なら耳を貸すだろうとヘルプを求めたのだそうです。多摩川の川縁で、爆発しそうな思いを全て先生にぶつけ、先生には私の若く稚拙な思いに全力で応えていただきました。
大学時代には、論文を書くため、画集を借りに行き、芸術・音楽・美術と文学の関係性などについて語り合ったこともあります。理科の先生なのに、芸術に対して非常に造形の深い先生との話しは本当に知的好奇心を駆り立てる楽しいものでした。この時は「勉強しているじゃないか。前に会った時よりも大きく成長しているのが良く分かって安心した。」とおっしゃっていただきました。
最後に先生とお会いしたのは、家内と結婚する時。結婚前に挨拶・報告をしに行った時です。突然の訪問にも関わらず、最初にお会いしたのと全く変わらない朗らかな笑顔で「おめでとう。な、勉強はしておくモノだろ?良かったなぁ!」とおっしゃっていただきました。
先生から唯一をもらった「モノ」があります。先生が退職金で自宅に作られた窯で焼かれた『砧窯茶碗』という銘の茶椀です。我が家には家宝が2つありますが、その内の一つがこの茶椀です。平成9年のことです。いつもの笑顔で「形見分けだ」と笑って託してくださったこのお椀。このお椀は見る度に教師人生最後の1年を懸けて何を私たちに伝えたかったのか?卒業後、事ある毎に、先生はどういう思いで未熟な私に相対し、言葉をかけてくれたのか?いつでも胸を張って先生にお会いできるような生き方をしているか?と言ったことを無言で問いかけてきます。
私は非常に筆無精ですし、何よりとても先生にお会いできる生き方ができていないことから、結婚の報告後、全く連絡をしていません。が、昨晩、茶碗を見ていたら、何だか『会いに行け』と言われている気がしました。魂を込めて作られたモノには何かしらの力があると言います。「命に関わる問題が起こったら、起こらなくても、いつでもおいで」とおっしゃっていただいた先生。もう80歳を超えられていらっしゃいます。嫌な予感もしなかったわけではありませんが、勇気を振り絞って先ほどお電話をしたところ何ともお元気そうでした。来週お会いしてくる予定です。
報告すること相談すること話したいことが山ほどありますが、純粋にお元気な先生のお顔を拝見できるということにワクワク・ドキドキしています。私の人生の節目に必ず居合わせてくれた先生。最後の教え子が私のような不肖な者で本当に申し訳ないという気持ちの一方で、人と出会うという奇蹟の中でも、心の底から尊敬できる師に出会えたことは特別な奇蹟だと改めて思いました。さて、あと1週間、家宝の茶碗とにらめっこしながら、お会いして何を話そうか良く考えておくことにしようと思います。
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