雑感ー「受難の世代」と呼ばれるか「礎を築いた世代」と呼ばれるかー

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村上龍著「希望の国のエクソダス」にポンちゃんという中学生が国会議員に尋ねるシーンがあります。
「要するに、誰を真似すればいいのか、みたいなことが全く分からなくなってしまっているわけです。政治家とかどうなんでしょう。いいからおれを真似て生きてればいいんだ、みたいなことを言う政治家の人っているんですかね?どうですか?みなさん」
(中略)
「今の政治家の生き方を真似ろ、今の政治家のように生きればいいんだと、なぜぼくらに向かって大きな声で言えないんですか?サイトウ先生、いかがですか?」
このワンシーンは、常に私の中心的な位置にある問いです。

確かに昔は大人のお手本が居たと思うんです。例えば白洲次郎。今、白洲のようにダンディズムを体現したような人、あるいは吉行淳之介のようなもうちょっとモダンで軽やかなダンディズムを見せてくれる人、思わず見とれてしまう着こなしの人。ちょっとした仕草がカッコイイ人。働く背中がカッコイイ人。バーの片隅で飲んでいて様になる人。葉巻が似合う人。万年筆と原稿用紙が似合う人、モーニングやタキシードが似合う大人。和服姿が粋な大人。「俺のマネをしろ」と言われなくても真似たくなる、カッコイイ大人。憧れる大人、お手本としたい大人。生き方が素敵な大人。価値観が素敵な大人。こういった生き方のモデルが不在だと思うのです。これら「モデルとなる大人」不在の世代だというのが、今の私たちの立ち位置だと最近つくづく思います。

モデル不在の世の中になった背景はいくつも考えられます。

経済的な面では、皆一丸となって成長、成長、成長を追及した成長社会が頂点を向かえ、今は下降もしくはこなれてきたということなのかもしれません。あえて美化した言葉を使うなら成熟社会に入ったとでもいうのでしょうか。

目標とすべき豊かさの象徴たるアメリカ型社会、全日本国民が超えることを目指した超大国アメリカが崩れてしまったことも一因かもしれません。アメリカンドリームに象徴される一攫千金、金こそ正義は崩壊したように見えます。ジェームス・ディーン、ハンフリー・ボガート、フレッド・アステア、マリリン・モンローたちが眩しかった古きよきアメリカは今はなく、もはやアメリカは目標となり得なくなりました。

昔は、謎につつまれていた大人社会の秘密のベールを「情報化」が、白日の下にさらしてしまったことも一因でしょう。昔はあったはずのいくら望んでも、もがいても手が届かなかった、大人だけに許された特権。大人だけに許されたモノ。大人だけの世界。そういったものを学生で容易に入手できるようになってしまいました。わかりやすいのは高級ブランド。ルイ・ヴィトンなんて昔はジャリタレが絶対手にできない大人だけが持てる名品だったのに、今や女子高生や男子学生が平気で持っています。もう大人を大人たらしめるモノがない。もしかしたらそういうことなのかもしれません。

先日、書店の生活雑誌・インテリア雑誌コーナーをフラリと覗いたところ、ある発見をしました。そこには、イギリス・フランス・北欧 etc ヨーロッパ各地のライフスタイルや生活雑貨を取り上げた書籍が並びます。アメリカに関する本は、NYやサンフランシスコなどチョロチョロとありました。しかし日本の暮らし、日本に合う暮らし、こういったものをとりあつかった雑誌が一冊も無いのです。これはどういうことでしょう?

目指すべきアメリカがダメになったら、次に目指すはヨーロッパということでしょうか?何故他国にモデルを求めねばならないのか?日本は世界的に見ても非常に希有な国で、長い歴史と洗練された文化をもった誇れる国では無くなってしまったのでしょうか?

"雑"誌も扱わなくなった日本という国を我々、市井の視点で見なおしてみましょう。
  • 歴史上類をみない巨額の借金まみれの国。
  • 借金してまで食料を輸入しないと食べていけない国。
  • 信念の無い保身しか考えない政治家が先生と呼ばれる国。
  • 口先だけで行動しない評論家がメディアに出まくる国。
  • 横文字だらけの役職を敬わんがばかりの国。
  • いまだに金が全ての経営者が大多数の国。
  • 効率化の元に切り捨てられ職につけない若者がいる国。
  • 教師がわいせつ罪で捕まる国。
  • 子どもが子どもを作っては捨てる国。
  • 人をもてはやした後、堕とすことが使命のメディアがある国。
  • そのメディアが庶民の最大の娯楽とされる国。etc...
これだけの負債をポンと渡されて解決できる術を私たちは持っているのでしょうか?モデルとすべき大人すら不在。他国にモデルを求めざるを得ない状況。そんな中で、私たちは一体何を目標とすれば良いのでしょう?どこに向かえば良いのでしょう?
組織に埋没していて良い時代は終わった。ようやく一人ひとりが独自の価値観を持ち、独立した個性を持った個人として、自由に人生を設計して、自分らしい人生を歩んでいけばよい。
最近、良く目にする指針です。でもこれは、随分勝手な言い草じゃないかと思います。そもそも「自分らしい」とは何ぞや?「独自の価値観」と「独善的」の違いは?「独立した個性」と「変な人」との違いは?「自由に人生を設計する」って耳障りの良い言葉だけれど、今まで図面なんて見たことも書いたこともない人に、いきなりジャンボジェットの図面を書かせるようなものじゃないでしょうか?全てを自分で決めて全てを自分の責任とすることは協調性のない悪いことだと教えられてきた世代に、突然上の世代のケツ拭いの為に、一方的にルール変更を言い渡されても戸惑うばかりです。

「学ぶとは真似ること」そんな言葉があります。今、私たちは真似る対象が不在なのだから、真に学んではいないのでしょうか?

今を懸命にもがいている私たちの世代は、後生からみれば哀れむべき受難の世代とされるのか、未来の礎を築いた偉大な世代と呼ばれることになるのか。少なくとも受難の世代だとリアルに感じますが、後生から、あの世代が今の礎を築いたんだと呼ばれる為に、今必要な事は何なのでしょう?冒頭の『希望の国のエクソダス』では全国の中学生が一斉に登校拒否という行動に出ました。私たちは?一斉に出社拒否でもしてみますか?みんなで暮らしやすい気候の他国へ移民となりましょうか?

あとがきにあるとおり、この小説は『龍声感冒』というサイトの掲示板で起こった議論に端を発しています。私はこのサイトの運営に幾ばくか関与していました。1996年のことです。その掲示板の議論の最中、村上氏は「真似したいと思わせる世代がいない世代の生き方を探しておく必要がある」確かこのような言葉を書き込まれました。当時大学生だった私には何か予言めいた一言に感じました。そして、96年から現在に至るまで答えが出ていません。みなさんの周りはいかがですか?真似をしたい大人(上の世代)がいますか?そして、今の私たちは今の中学生から、どう見られているのでしょう?「三十にして立つ。四十にして惑はず。」立てている実感はないし、あと6年で迷わないようになれるのか甚だ疑わしいものです。「兎角この世は生きにくい」漱石の時代から変わらないことのようですが、今は何だかより重苦しく感じるのは私だけでしょうか。

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