会社という村社会

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一部のちょっとヤンチャな方々にご好評いただいて、私自身のストレス発散にもなっている、毒気たっぷりな不定期腹黒連載「反逆児の仕事術シリーズ」ですが、当然私の実体験を書いています。私はいくつかの会社を渡り歩き、様々な会社の内部に潜入してきましたが、日本の会社には気になることがあります。

それは「会社」と「村社会」の構造が酷似しているということです。

Wikipediaに載っている「村社会」の説明を見てみます。

村は本来、道切りなどにより外部と区別される空間で、村の成員は生業を行い生活に必要な資源を供給する環境を共有し、寄合を行い祭礼や年中行事を共同で行うことにより統一された意思のもと秩序維持を行っていた。村社会は相互互助的な性質を持つ一方で、内部には経済的階層や家柄による家格などが存在し、村の秩序維持のための青年組織などが存在した。特徴としては古くからの仕来りを遵守する傾向があり、それに異を唱えるものや遵守しない者に対しては本人や肉親、更にその者に関わったものまで異端者扱いし、差別を行なうことがある。これにより新たにその地域に移住してきた者や流行にとらわれやすい若者が反発し、古くから住んできた者とのトラブルが後を絶えない。

なるほど。さて、これをですね、こう弄ったらどうでしょう?

会社は本来、社名や建て屋などにより外部と区別される空間で、会社の成員は与えられた仕事を行い、人・物・金などの資源を供給する環境を共有し、組合を作り春闘や、花見や忘年会などの年中行事を行うことにより統一された意思のもと規律維持を行っていた。会社では相互互助的な性質を持つ一方で、内部では派閥や役職などが存在し、会社の秩序維持のための研修プログラムなどが存在した。特徴としては古くからの暗黙のルールや前例を遵守する傾向があり、それに異を唱えるものや遵守しない者に対しては、本人やその上司、更にその者に関わった者まで異端者扱いし、差別を行うことがある。これにより新たにその会社に中途採用者や流行にとらわれやすい若者が反発し、古くから勤めている者とのトラブルが後を絶えない。

どうでしょう?驚くくらい一致すると思いませんか?言葉遊びにしては良く日本の会社の姿を表していると思います。

こうした閉塞的な村の中で生活するのに欠かせないのは「協調性」「空気を読む」「長いものに巻かれまくる姿勢」です。秩序維持を第一に考えれば皆同じ方向を見て、同じ思考で、同じ事を、同じように感じる方が楽ですし、そう育てられるのですから当然と言えます。
 

ただし、特殊技能を有する人は除外されていたかもしれません。刀鍛冶や、医者などは、その人がどんなに変な人でも容認されたと思います。しかしこれらの人は決して村のヒエラルキーの頂点にはなれなかったでしょう。もしまかり間違って一般人が『個性を出したり』『秩序に反旗を翻したり』した場合は出る杭は打たれ、「村八分」という強烈な処罰が待っているわけです。

これらも、そのまま日本の会社に当てはまります。画一的というか「社員総平均化」とでも言いましょうか、突出した個性を持つ人や、突出した仕事を成し遂げる人、若しくは私みたいな単なるへそ曲りは非常に邪険に扱われるわけです。そしていくら一所懸命、声を上げてみても上には届かず、生かさず殺さず『生殺し』という処罰を受けることになり、次第に声を上げる力も無くなったところで、「ヨシヨシわかれば良いんだよ」と優しく受け入れられるというシステムです。無謀にも戦略戦術を持たず、ひたすら声を上げ続けた人は窓際や肩たたきというところに着陸するのが相場でしょう。

画一的な組織の全てが悪いとは言いません。完全なるヒエラルキーの元、一糸乱れぬ動きが要求される軍隊などでは、むしろ画一的で無ければ困ることでしょう。作戦を展開する際にいくら戦況が即時変化するとは言え、各人の判断でバラバラに攻めるなんてことは考えられません。(ただ、現在のアメリカの苦戦は、個別の意思を持つ大勢のゲリラたちに画一的な組織としての軍隊では対処できない様を露呈しているという見方もできそうですが)そういう意味では敵が明確で、管理が必要な場合は、管理の容易さにおいてこの仕組みは使い勝手がよさそうではあります。

また、こうした社会体質・風土の形成に私たちが加担してしまっているとも言えそうなのも問題です。いろいろ文句を言いつつも何だかんだでその実、村(会社)での生活に染まっていて、居心地良く感じている時はありませんか?もしくは一見安全に思える村を出る!と腹を括れる人はどれくらいいるでしょうか?腹を括れない理由は?村を出たら経済的にどうなるかわかりませんし、出た瞬間からどんな脅威が待ち受けているともわかりません。村にいたころはピンチの時には村人に助けてもらえたかもしれませんが、村を出た瞬間から援軍は望めません。どう検討しても、村を出るということはリスキーであることに変わりはないと思います。

何度か転職をした私はこのリスキーさを肌で分かっています。今の会社には「恩がある」ということを抜きにして、何故、会社に勤めているのかと問われれば、やはり「賃金を得ること」を理由のトップに挙げます。どんなに薄給であっても、食べるために働くという図式は如何ともし難いものがあります。かといって再び村を出て、フリーとしてサバイブしていくだけの自信も実力もあるとはちょっと思えないわけです。

では、「村の外に出る勇気はないけど、村がもっと風通しの良い場所になってくれれば良いなぁ」と思っている、私のような都合の良い軟弱者はどうしていけば良いのでしょうか?

ハッキリとした答えは私は持ち合わせていません。このままではヤバイということだけを朧気に感じるのみです。ただどうやら個人が会社に「雇われている」という認識は改める必要がありそうだとは感じます。人生の羅針盤を自分の元に取り戻す必要があるといったところでしょうか。
個として会社と伍していく為には最低限の土台として仕事が出来ることは当然ですが、「身だしなみに気をつける」とか「挨拶をする」とか「約束は守る」とか「味方同士で争わない」とか「味方同士で足を引っ張るような真似はしない」など、当たり前過ぎてついつい思考が「茹で蛙」の状態になってしまいがちなことを、意識的にレビューし、注意を払う習慣づけが、もしかしたら大きな変化へとつながる第一歩なのかもしれません。

1 コメント:

tirrano さんのコメント...

とてもおもしろい論考ですね。
私も会社を4つ渡り歩いていますが、現在の会社は生活の糧を得るためとキャリア的な趣味がマッチしているので、経済的に満足は出来なくとも留まっているという感じです。

起業することをもっと積極的に考えたほうがいいのでしょうね。一人で出来ることなど限られていますから、ユニークな視点を持った異端児が集まって、社会に貢献できるやり方を考えることのほうが、健全でしょう。

毒をまくのもおもしろいですが、、、ひたすら健全もおもしろいと思います。